01-序

近年、「スピリチュアル」という言葉が流行している。この言葉は曖昧で、そこに含まれる事柄も様々なようだが、その中の大きな柱として、「霊能者による、霊に関する言説」があることは確かだろう。霊能者が「霊的カウンセリング」を行なったり、「除霊」をしたりする場面が、テレビによって伝えられ、人気を博している。
こうしたブームは今に始まったものではない。オウム真理教事件(一九九五年)の後、しばらくマスメディアはこうした分野の主題を扱うことを自粛した時期があったが、それ以前、七〇年代中期の超能力ブーム、八〇年代中期の精神世界ブームといった、きわめて近い色彩の大衆的流行現象は見られた。
大局的に見れば、こうした「あやしげな」ブームは、常に大衆の中から涌き起こり、時に一過性のブームを引き起こして終熄する、そして「正統とされる知の世界」は、それらをまったく歯牙に掛けない、という構図が繰り返されていることになる。「正統的な知の世界」を自任する人々(およびそれに無意識的に同調する人々)は、熱狂する大衆を「信じやすい者」「無知蒙昧の徒」として嘲笑し、あるいは無視する。それでも「あやしげな」ブームは懲りずに息を吹き返す。
これを「聡明な知識人」と「無知蒙昧な大衆」との対立と見るか、それとも「正統」と「異端」との間の闘いであると見るかによって、そこに現われる意味はかなり違ってくる。「見えない力」や「超常能力」や「霊」を問題にすることが、果たして「無知蒙昧」なのか、それとも「そういうものはありえない」とする立場が、単に「正統」に居坐っているだけなのか。
もちろん、「あやしげな」ものの中には、確かに「無知蒙昧」と言われても仕方のないものがある。多いかもしれない。だが、「あやしげ」とされる中にも、理性的・知性的な検証・判断を踏まえているものは少なからず存在する。それを十把一絡げで「蒙昧」とするのは、果たして公正な態度だろうか。

「正統」と「異端」の闘いは、人間の歴史のあらゆるところ、「正統」が存在するすべての場面であった。宗教、特に一神教の世界では、この構図はかなり熾烈に存在した。キリスト教で言えば、初期のグノーシス主義、中世のカタリ派、近世のプロテスタントなど、枚挙にいとまがない。むしろ教会の歴史は異端との闘いの歴史であった。そして「正統」が果たして「真理」だったのか、それはかなりあやしい。
宗教の「正統」は宗教内の思想問題であって、現代の「正統的な知」は真理なのだから、「あやしい」ものは単なる蒙昧だ、というのは、単なる自己絶対化に過ぎない。後に詳しく述べるが、現代の「正統的な知」が真理であるという保証はない。法王庁の「正統」を独善ではないかと疑うのが近代知識人の自然であるなら、近代の「正統な知」も同じように疑ってみることは必要ではなかろうか。

「見えない力」や「超常能力」や「霊」を言い立てる「異端」勢力と、「そういうものは存在しない」とする「正統を自任する知」の対立は、それほど昔ではない時期、きわめて鋭く対立したことがある。そしてその対立は、決して「賢明な人」と「蒙昧な人」との対立ではなかった。それが「近代スピリチュアリズム」の勃興期であった。
そもそも、現代の「正統な知」が「正統」の座に上ったのは、それほど古いことではない。その「正統な知」を、ここでは「科学主義的唯物論【1】」と称することにするが、それはせいぜい一八世紀に優勢となったものである。そして、その「知」が近代文明の先進地である欧米で「正統」の位置を確固たるものにしようとしていた一九世紀中葉、それに激しく反旗を翻すべく勃興してきたのが「近代スピリチュアリズム」とその検証運動「サイキカル・リサーチ」(心霊研究、後に超心理学を生み出す)であった。
この闘いは「異端」の側の敗北に終わることになるが、そこで展開された反駁は、内容的にきわめて豊かなものであった。現代日本のちゃちな「ブーム」とは比較にならないほどの、情熱と知力が動員されたことは疑いがない。
しかし、その蓄積はある意味、捨て去られた。正統の側はそれに「異端」の烙印を押し、人々が近づかないようにした。その後に異議申し立てをする人々も、過去の蓄積を参照することは少ない。歴史を見れば真実がわかると言うことはできないが、より真理に近い考察と判断を求める際に、歴史を参照することは有意義であろう。しかし残念なことに、正統の側はもちろん、異端の側も、かつての闘いの中で蓄積された知見を利用することは少ない。そのことがあれば、異端の「あやしさ」もだいぶ払拭できるはずだと思うのだが。

本論の目的は、捨て去られた「異端」の蓄積に、何とかして光を当てたいということである。個人的な「思想」を展開する意図はない。ただ、紹介し、整理をし、いささかの補足的解釈可能性を付け加えることで、より多くの人へ届けたいと願うだけである。そして願わくば、現代の「正統的な知」が主張する、「人間はモノに過ぎない」という命題に、「あやしく」なく、理性的に反駁しうる立場を、明らかにできればと思う。
「正統」の位置を奪取しようという意図もない。残念ながらそれは現状では無理であるし、「正統」を自任することで生じる様々な悪弊を回避したいからである。もっと平たく言えば、「これが真理だ」という押しつけはしないということである。以下に述べることは、あくまで情報とその信憑性に関する弁護であって、それを受け入れることを求めるものではないし、まして受け入れない立場を蒙昧扱いするものでもない。「人間はモノである」という考え方も、「人間はそれ以上の何かである」という考え方も、現時点ではどちらも絶対を主張できるものではなく、どちらを取ることも自由、というのが望ましい地点だと考えているわけである。

本論に入る前に、煩瑣で申し訳ないが、いくつか用語・表現上のお断わりをしておく。こだわらない方は飛ばしていただきたい。
まずは「スピリチュアリズム」とは何を指すかということをできるだけ明確に定義しておかなければならないが、これは案外やっかいな問題を孕んでいる。
スピリチュアリズムは、端的に言うなら、「①人間個性の死後存続と②現界と霊界の交渉【2】」を認める立場であるが、それを定義とすると、古代から現在まで、地球上のほとんどの地域で見いだせるものになってしまう。「精神主義」という一般名詞や、そうした普遍的な信仰と区別し、一九世紀中期以降、主に欧米で出現した出来事およびその内容を指すには、「近代スピリチュアリズム」と区別して呼ぶべきであるが、ここでは単に「スピリチュアリズム」と呼ぶことにする。なお、同時代にフランスで生まれた「スピリティスム」を別のものとして扱う立場もあるが、ここではスピリチュアリズムの中に含めており、その特殊な立場に論及する場合にのみ「スピリティスム」という言葉を用いる。
比較的広く通用している訳語として「心霊主義」というものがあるが、後述する「サイキカル・リサーチ」がやはり「心霊研究」と訳されていて、混乱が生じているので、ここでは用いない。ちなみに「霊交思想」「神霊主義」「心霊学」「心霊術」「霊実在主義」といった訳語が提案されたりしてきたが、どうもすっきりしない。一番素直なのは「霊魂主義」かもしれない。
「サイキカル・リサーチ」(ギリシャ語の「心=プシュケー」を語幹とするもので、「霊=ヌース」ではない)は、スピリチュアリズム勃興期に多発した奇跡的現象の真偽を研究するものとして生まれたが、公的には霊の実在を問題としていないので、「心霊研究」はかなり誤訳に近い(おそらく研究者の多くは「自分は霊の研究などはしていないよ」と言うだろう)。内容から言えば「超常的心力研究」ということになるだろうが、「超常現象研究」の方がすっきりするかもしれない。これもやむを得ず片仮名表記とする。
「霊」は「肉体を持たない知性存在」で、必ずしも死後の人間のみを指すものではない。死後のまだ濃厚に地上的個性を持っている霊を「魂」と呼ぶ場合も多く、ここでもそのような使い方はするが、厳密に区別できるわけではない。
現行の物理法則に反する現象については、「超常現象」「心霊現象」「サイ(PSI)」などの表現があるが、霊ないし生きている人間の心が起こすと推測される現象の場合には「心霊現象」を用いた。個性的主体の関与というイメージを持たせたいからである。また「物理的心霊現象」とか「心理的(主観的)心霊現象」といった言い方がかなり馴れた表現だからでもある。より中立的なニュアンスを強調したい場合は「超常現象」「超常的」という表現も用いている。
「霊」からの情報ないしメッセージという意味で「霊信」という言葉を用いている。あまり一般的でない言葉だが、便利なのでご許容願いたい。通信手段として「入神談話」(霊が霊媒の口を借りて話すもの)や「自動書記」(霊が霊媒の手を使って書き記すもの)など様々な形式があるが、すべてを引っくるめての意味である。
「霊媒」は「medium」の訳語で、霊の言葉や力を媒介する人間(憑霊型シャーマン)を指す。後に「霊」の実在をぼかす意味で「psychic」つまり「超能力者」や、その中間的な「霊能者」という言葉ができたが、伝統的なスピリチュアリズムでは「霊媒」が多用される。
この手の主題を扱う際に中立性を保つために「~とおぼしきもの」「~と主張されているもの」といった留保表現がよく用いられるが、煩瑣になるので使用しない。
記述はもちろんスピリチュアリズム側に立ったもので、それなりの「偏向」がある(特に歴史的記述などについては必然的に生じる)だろうが、宗教的熱狂には陥らないように努めたつもりである。
なお、補足的な説明は注にまわし、書誌データは参考文献に一括した。

【注】
【1】――科学主義的唯物論とは、①実験再現性、②普遍的計測可能性、③仕組みの説明、④既存の物質原理との整合性、といった条件を満たす現象以外を認めないという態度であり、結局のところ、すべての現象の原因には物質があるとする世界観である。ただし、この要件がすべて満たされないままに認定されるものもある。
【2】――これは一九二三年に国際スピリチュアリスト会議が開催された際に、スピリチュアリズムの「最大公約数」として掲げられたものである。

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