04-学者たちの研究団体

イギリスにおけるスピリチュアリズムの大流行は、これだけで終わったら、アメリカのそれとほとんど変わらないものに留まったかもしれない。そしてヴィクトリア朝の文化的爛熟を物語る一幕のエピソードとして終わったかもしれない。だが、イギリスのブームは、きわめて重要な成果をもたらした。それは、アカデミックな地位を持っている学者たちが、団体を結成し、真剣に「現象」を検証したということである。
この団体は、「ソサエティ・フォア・サイキカル・リサーチ」という名称を持っている。通常日本では「心霊研究協会」と訳されるが、前述したようにこの訳語は適当とは言い難いので以下SPRと記すことにする。
SPRの設立を提唱したのは、ウィリアム・バレット(一八四五―一九二六)というアイルランド出身の物理学者である。後にダブリン王立科学大学物理学教授を勤めた彼は、メスメリズム(催眠療法の前身となったもの)の実験を目撃したのを契機に霊的現象に興味を持ち、クルックスからの励ましもあって、熱狂的に研究に乗り出した。そして、スピリチュアリズムの活動家E・D・ロジャーズの発案を受けて、著名な科学者や学識者を主要メンバーとした、懐疑派や無関心派も引きつけるような「協会」を作るべきだと考えた。
これに呼応したのが、フレデリック・マイヤーズやヘンリー・シジウィックらのケンブリッジ知識人だった。
フレデリック・マイヤーズ(一八四三―一九〇一)は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学び、同フェロー、古典学講師、教育省学校監視官として勤める傍ら、一八七〇年代始めから霊的現象の研究を始めた。七四年にはステイントン・モーゼズと出会い、彼の引き起こす現象が疑いないものであることを認めて、スピリチュアリズムに深く傾倒するようになった。後に大著『人間個性とその死後存続』を著わし、さらに死後に「マイヤーズ通信」という霊信の発信者となる、スピリチュアリズム史上の重要人物である。
マイヤーズは七四年に、大先輩であるトリニティの道徳哲学教授ヘンリー・シジウィック(一八三八―一九〇〇)に研究サークルを立ち上げることを提案した。シジウィックは一八六〇年代に霊的現象の研究を始めたが、当初は懐疑的だった。しかし七四年に科学者として尊敬するクルックスの研究報告が発表されたこともあって、彼はマイヤーズの誘いに応じた。そして、このグループには、後のSPRの中心的メンバーとなるエドマンド・ガーニー、ジョン・ストラット(後のレイリー卿、ノーベル賞物理学者)、アーサー・バルフォア(後の英国首相)らが参加した。グループは、その後七〇年代末までメアリー・シャワーズ、ケイト・フォックス、ヘンリー・スレイドなど多くの霊媒の現象を調査した。
そして一八八二年二月、バレット、シジウィック、マイヤーズ、ガーニー、ロジャーズらを中心として、SPRが正式に発足した。
初代会長となったシジウィックは一八七四年に大著『倫理学の方法』を刊行し、広い人脈と信望を獲得していたので、SPRは著名な科学者や文化人が数多く会員となった。天文学者B・スチュワート、電子の発見者J・J・トムソン、数学者チャールズ・ドッジソン(『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロル)、政治家グラッドストーン、ラスキン、テニソン卿、そして貴族、聖職者、裁判官……。そして、ロジャーズやモーゼズといったばりばりのスピリチュアリストもいた。
いささか細かい叙述になったが、要するにSPRは「ごった煮」として出発したということである。科学者や学識者もいたし、ステータスを持っていた上流市民もいた。そういった地位を持たずに、スピリチュアリズムを熱烈に信奉する市井の人々もいた。名前は連ねたものの、懐疑的で、断固としてペテンを暴いてやろうと企図している人もいたし、自らの切実な信仰探求のために精力を注ぎ込もうとする人もいた。もちろん霊魂の実在はもう明らかだと思っている人もいた。もっと単純に言えば、懐疑精神の人々と信奉者とが「呉越同舟」状態だったということである。
スピリチュアリストから言えば、SPRの設立は、スピリチュアリズムが正統な「知的世界」の中に位置づけられる可能性を期待させるものであった。しかしながら、スピリチュアリズムが第一義としている「霊魂の実在」「個性の死後存続」といった主題は、その過激さゆえに、SPRの正式な綱領からは除外されている。
以下に、SPR会報第一号に掲載された「SPRの目的」という記事の主要部分を引用する[笠原、一九九三年、一七頁]。
《現在は、メスメリズム的、心霊的〔サイキカル〕、心霊主義的〔スピリチュアリスティック〕といった言葉で呼ばれる、議論の多い大きな現象群を組織的、系統的に研究しようとする試みを行なう好機であるとして広く考えられている。
各国の著名な科学人によって最近行なわれた観察をはじめ、過去および現在の、信頼の置ける数多くの証人たちによる、記録に残された証言を見ると、多くの錯覚や欺瞞に混じって、注目すべき現象がかなり存在するように思われる。こうした現象は、一般に承認されている仮説によっては、一見したところでは説明できないし、もしそれが争う余地のないほど証明されたとすれば、このうえなく大きな意味を持つことになるであろう。
このような残余の現象を検討する作業は、個々人の努力によってしばしば行なわれてきたが、これまでのところ、十分広い基盤の上に組織された科学団体によって行なわれているわけではない。この目的に向けた予備的な第一歩として、バレット教授の主催になる会議が一八八二年一月六日にロンドンで開催され、心霊研究協会という団体の設立が提案された。この協会は、一八八二年二月二〇日、正式に創設され、その時点で設立された評議員会は、将来の研究計画を起草した。その結果、次の研究対象が各特別委員会に委任された。

1.一個の心が別の心に対して行使する可能性のある、一般に承認されている知覚様式とは異なる影響力の本質および、それが及ぶ範囲の検討。
2.痛覚の鈍麻とされるものを伴う催眠現象および、いわゆるメスメリズム的トランス状態の形態、透視その他の関連現象の研究。
3.“霊能者”と呼ばれるある種の生体を対象としたライヘンバッハによる研究の批判的検討および、これまで承認されている感覚器官のきわめて高い感受性を越えた知覚能力をこうした生体が保有しているか否かの探究。
4.人間の死の瞬間に出現する霊姿や、幽霊屋敷とされる家屋で起こる騒乱状態に関する、有力な証言に基づく報告の厳密な調査。
5.心霊主義的と通常呼ばれる種々の物理現象に対する探究、および、その原因や一般法則を発見しようとする試み。
6.以上の研究対象の歴史にまつわる、現存する資料の収集および照査。

当協会の目的は、このような種々の問題を、何らの先入見や偏見にとらわれることなく、かつては同様に原因不明であり、熱心に議論もされてきた数多の問題をこれまで科学に解決させえたのと同様の、正確にして冷静な探究精神を以て研究することである。当協会の創設者は、この方面の研究にまつわる例外的困難を十分認識しているが、にもかかわらず、一貫した辛抱強い努力を重ねることにより、永続的重要性を持つ結果がある程度得られるのではないかと期待している。》

歯に物が挟まったような表現だが、テレパシー、催眠トランス、霊姿(いるはずのない人物の姿が出現すること、その人物の死を肉親に知らせるといった形が多い)、ポルターガイスト現象、そしてスピリチュアリズムの霊媒が起こす物理的心霊現象が探究の対象となっている。しかし、あくまで対象は「現象」であって、それが主張している「霊の実在」「死後存続」ではない。
なお、科学者が心霊現象を真剣に研究することは、現代人から見れば奇妙に思えるかもしれないが、当時は少なくとも現在よりは「未知の力」の発見への期待が大きかったことは、付け加えておくべきかもしれない。世界はまだ未発見の法則で満ちていた。X線や電子、電波の発見は、十九世紀末から二十世紀初頭(わずか百年前)の出来事である。前述したクルックスはその前段的研究を行なっていたが、心霊現象を引き起こす力を「サイキック・フォース」と名づけ、何らかのエネルギー伝播場の存在を想定した。後にアインシュタインによって否定されたエーテル理論(空間をあまねく満たしている見えない物質があるという説)も当時は隆盛だった(世紀末にスピリチュアリズムに参加したオリヴァー・ロッジは、その中心的研究者だった)。科学に新発見の期待が薄れ、既発見法則の不動性だけが重くのしかかっている現在の情況とは、かなり異なっていたのである。

ともあれ、懐疑派から確信者まで、知識人から一般市民まで、多種多様な人々を巻き込んでSPRは活動を開始した。こうした「ごった煮」組織は往々にしてたいした活動もできずに空中分解するものであるが、SPRはそうではなかった。「会報(Proceedings)」を定期的に刊行し、しかもその内容はかなり高度なものであった。記事は実験や調査をもとにし、慎重で懐疑的な検証を加えたもので、会員が勝手な意見を述べるような普通の「会報」とはまったく異なっている。八四年にはこれに加えて「会誌(Journal)」も創刊された。

SPRには多くのスピリチュアリスト、つまり「死後存続と霊界交渉」を認めた人々が加わっていたわけだが、SPRの中心は「慎重な研究者」たちだった。テレパシーや透視といった現象を認める研究者は少なからずいた(バレットはその典型だった)が、「死後存続」に対して肯定的な意見を公表する研究者はいなかった。「死後存続と霊界交渉」を認めることは、研究者として不適格であるという暗黙の圧力が、すでにこの時代からあったようである。
スピリチュアリズムが主張する「死後存続説」「霊魂実在説」という主題の特殊性が、このSPRの状況によく見て取れる。このことは後に改めて論じるが、「現象群」は研究してもよいが、その現象が示唆している説明原理は受容してはいけない、といった態度が要求されるのはこの分野だけではないだろうか。マルクスの歴史的発展説やダーウィンの自然選択説に関して、あらかじめそれを認めてしまっている研究者は、歴史研究や生物研究をする資格はない、懐疑的で「嘘を暴こうという意図」をもって研究しなければならない、という主張がされるだろうか。しかるに、霊魂説だけは、「それを信じて研究してはいけない」と言われる。受け入れた人々は「信じやすかった」人々、懐疑主義者(というよりは否定の努力をした人々)は「誠実さを貫いた人々」と形容するのが、アカデミックな立場なのである。
SPRに参加していたスピリチュアリストは、こうした状況に不満を持っていたものの、当初はある程度の「慎重姿勢」「態度保留」はやむを得ないと思っていたようである。しかし、次第に度を増していく懐疑主義、「トリック暴きへの熱情」は、ついに一部のスピリチュアリストの離反を引き起こすことになる。
契機となったのは、当時の著名な霊媒、ウィリアム・エグリントンの「石版筆記」現象の検証だった。エグリントンは、全身物質化現象や物体浮揚など華々しい物理的現象を披露して、すでに名声を確立していたが、SPRは強固な懐疑主義的態度で調査に臨んだ。中心になったのは、初代会長シジウィックの妻で、物理的心霊現象やそれに熱狂するスピリチュアリストに猛烈な嫌悪感を持っていたエレナー・シジウィック、そして、精力的活動家でブラヴァツキー夫人の「ペテン暴き」を行なったリチャード・ホッジソンらである。彼らによって一八八六年にSPRの会報に、エグリントンへの攻撃的な記事が掲載されると、憤激したエグリントンはSPR会員のスピリチュアリストたちに脱会を求めた。そしてこれに呼応してステイントン・モーゼズを始めとするスピリチュアリストが会を離脱した。

ただし、SPRの初期中心メンバーのほとんどは、公には懐疑的態度を懸命に保持していたものの、個人的には「死後存続の真実性」を認めるに至っている。マイヤーズは比較的初期から受容していたし、懐疑主義者ホッジソンやフランク・ポドモアも転向している。設立発起人バレットは一九二四年の『回想録』において、SPRの集めた証拠によって、「霊の世界の存在、死後存続、死者からの交信が度々起こっていること」は「確実に立証された」と述べている。SPRからスピリチュアリストを追い出そうと躍起になっていたエレナー・シジウィックさえも、「心霊現象研究史上最大の霊言霊媒」と呼ばれたレオノア・パイパー(一八五九―一九五〇)の現象を探査して、霊魂の実在を認めるようになった。
例外は初代会長シジウィックだった。彼はパイパー夫人の霊能に深い感銘を受けたものの、霊魂の実在を確信するには至らなかった。シジウィックに関しては、クルックスのコメントが有名である。
《目の前では心霊現象が起こらないような人もいるのである。シジウィック教授がその一人だった。何度試してみても、彼は一回たりとも心霊現象を目撃することがなかった。》[オッペンハイム、一九九二年、一六五頁]
とはいえ、彼は「見ないから信じない」といった単純な精神の持ち主ではなかったろう。二十年以上にわたる心霊現象研究の中で一回の目撃もないというのは、むしろ特殊な、何か意味がありそうな事態である。ある見方をすれば、シジウィックのそうした歩みは、近いうちに何かが発見されるだろうという期待を抱きつつ、「証拠不十分」を唱えて懐疑的位置に留まり続けた、SPRそのものの体現だったのかもしれない。

SPR自体は、公的には何らの結論も出さなかった。彼らは現象を検証し、「ペテンの疑いがある」か「ペテンの可能性は発見できなかった」と報告するのみであった。一部の現象が真実であるとか、それは見えない存在によって起こされている、といった結論は、少なくとも協会としては出さなかったし、一五〇年以上を経過したいまだに出していない。
白とも黒とも結論が出ず、百数十年にわたって議論が平行したまま、という研究分野は、まずない。この問題は改めて述べるが、イギリス・スピリチュアリズムの一つの到達点とも言える「サイキカル・リサーチ」が明かしたことは、「超常的現象」と「霊の実在」との間にある深い溝の存在だった。

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