05-イギリス・スピリチュアリズムの結実

一方、スピリチュアリストたちは、一部はSPRに参加したが、独自の活動を展開していた。小さなサークルや地方協会は多数できていたし、SPRより九年早い一八七三年には、活動的スピリチュアリスト、E・D・ロジャーズらの主導で「英国スピリチュアリスト協会」が結成された。一八九一年には、スピリチュアリズムの熱烈な伝道者ブリテン夫人らの支援により「英国スピリチュアリスト連盟(SNF、のちのSNU)」が設立されている(なお、九三年にはアメリカで「National Spiritualist Associatin of Churches (NSAC)」が設立されている)。雑誌においても、一八八一年にはステイントン・モーゼズらにより月刊誌『ライト』が、八七年にはブリテン夫人により大衆的週刊誌『トゥー・ワールズ』が創刊されている。
ただし、一口にスピリチュアリストといっても、中身は様々である。たとえばキリスト教に対してどういう態度を取るかで、親キリスト教スピリチュアリストもいたし、反キリスト教スピリチュアリストもいた。物理的心霊現象を好み、ありとあらゆる異常現象・神秘現象を追いかける人々もいれば、ただ死別した肉親との「再会」によって自身の慰安を求める人々もいた。他方で、「霊からの情報」を宗教に代わる真理の道標と捉え、霊魂説を基礎にした哲学的世界観を模索する人々もいた。
どのようなムーブメントにもよきものと悪しきものが含まれるものである。シジウィック夫人が物理的超常現象に熱狂するスピリチュアリストを憎悪したのは、まったく不遜というわけでもない。スピリチュアリストの中にも、同様な嫌悪を抱く人々はいた。アメリカではA・J・デイヴィスが一八八〇年代に、珍奇な現象ばかりを追い求めるスピリチュアリズムに嫌気がさして、訣別を表明したし、イギリスのスピリチュアリストから敬意を集めていたステイントン・モーゼズも、同様の状況に苛立ちを感じ、スピリチュアリズムには「大衆的・低俗な」ものと、「より高級な」ものとがあると主張せざるを得なかった。その後、スピリチュアリズムを哲学的・宗教思想的に捉える立場は、「高級(higher)スピリチュアリズム」と自称するようになる。不遜な自称とも言えるが、やむを得ざるところであろう。
だが、イギリスのスピリチュアリズムは、まだその時点では哲学的・宗教思想的成果を上げていなかった。その点ではアメリカの初期スピリチュアリズムの方が勝っていたし、後述するが、フランスでは独自の驚くべき結実がもたらされていた。
一八八三年になって、ようやく一つの書物が刊行された。ステイントン・モーゼズの『霊訓』[モーゼス、一九八五年]である。待っただけのことはあるというべきか、この本はスピリチュアリズムのバイブルの一つとしていまだに高い評価を得ている。
ステイントン・モーゼズ(一八三九―九二)は、イングランド東部のドニントンに生まれ、オックスフォード大学卒業後二十四歳で英国国教会の牧師となった。三十歳の折に重病を患い、治療を受けた医師がスピリチュアリストであったことから交霊会に参加するようになった。当初は強固に懐疑的だったが(国教会牧師なら当然だろう)、D・D・ヒュームの交霊会に参加して死後存続と霊信の信憑性を受け入れるようになり、一八七二年頃からは、自らが霊媒となって交霊会を開催、様々な物理的現象が起こるようになる。物体浮揚、自己浮揚、アポーツ、芳香・音楽現象などの華々しい現象を見せたが、一般を相手にした実演はせず、研究者による検証実験にも応じていない。しかしその知性と人格の高潔さによって、当時のスピリチュアリズム運動の中核的存在となり、八一年には雑誌『ライト』の編集長となる。SPRの設立にも尽力し、評議員も務めている[Fodor, 1933, pp.248-249]。
七三年から、霊信の受信方法として自動書記を採用、「ドクター・ザ・ティーチャー」という署名で、霊からのメッセージがもたらされる。数年後、書記の筆跡が変化し、「インペレーター」と名乗る高級霊を主とする四十九名の霊団による大がかりな「霊的指導」が行なわれるようになる。これは当時刊行されていた雑誌『スピリチュアリスト』に連載され、霊信が終結した際に、『霊訓 Spirit Teaching』として刊行される。
この本は、発信者である霊と受信者であるモーゼズとの間の、激烈な論争が主体となる。スピリチュアリズムを受け入れていたものの英国国教会の牧師であり、伝統的キリスト教の思想を持っていたモーゼズに対し、インペレーターはその信念の誤謬を痛烈に批判するのである。ただ、同時に、人類にとって宗教はどういうものだったかという知見・情報がちりばめられていて、一種の「宗教概論」としても興味深いものである【5】。

この後もしばらくスピリチュアリズムは、相変わらず白眼視にさらされながらも、勢いを維持していった。駆け足でたどると、一八九二年には、著名ジャーナリスト、ウィリアム・ステッドが死別した恋人からのメッセージをまとめ『ジュリアからの手紙』[ステッド、一九九三年]を刊行、多くの読者を獲得した。科学者オリヴァー・ロッジもサイキカル・リサーチからスピリチュアリズムへと進み、『魂の不死性』(一九〇八年)、『人間の死後存続』(〇九年)を発表して大きな反響を呼んだ(ロッジの著作は大正年間に日本でも数点翻訳されている)。
第一次大戦後には、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイルがスピリチュアリズムに加わり、『新しい啓示』[ドイル、一九九二年]などの著作を発表、ヨーロッパやオーストラリア、ニュージーランドなどを講演して回り、「スピリチュアリズムのパウロ」と呼ばれた。またオリヴァー・ロッジが、第一次大戦で戦死した息子との通信を記録した『レイモンド』(一九一六年)[ロッジ、一九九一年]は、大戦に傷ついた多くの人々の心を慰めた。一九二三年には、国際スピリチュアリスト会議がリエージュで開催され、翌年には「インターナショナル・スピリチュアリスト・ユニオン」が発足した。一九二五年にはG・V・オーウェン(モーゼズと同様国教会牧師だった)が死去した母親を始めとする複数の霊から受け取ったメッセージをまとめた大著『ヴェールの彼方の生活』[オーエン、一九八五~八六年]が刊行された。
だが、第一次大戦を境に、スピリチュアリズムはその基礎部分に翳りを見せていく。あれほど輩出していた霊媒が、出現しなくなったのである。特に物理的心霊現象を起こす霊媒は、急速に減少していった。理由はわかるよしもない。あれだけの現象を見せても心を改めない人間たちに、霊界が飽き飽きしたのかもしれない。霊媒はやはりスピリチュアリズム運動のエンジンである。それがエネルギーを失えば、全体は失速していく。
第二次世界大戦の始まる直前、一九三二年は、スピリチュアリズムにとって晩期の輝きの記念すべき年と言えるかもしれない。この年、アーサー・フィンドレーとモーリス・バーバネルによって雑誌『サイキック・ニューズ』が創刊され、「シルバー・バーチの霊信」が広く知られるようになった(「シルバー・バーチ」については後述する)。また、自動書記霊媒ジェラルディーン・カミンズが、一九〇一年に死去したフレデリック・マイヤーズからの通信をまとめ『不滅への道』[カミンズ、一九八六年a]として刊行した(続編となる『人間個性を超えて』は一九三五年刊[カミンズ、一九八六年b])。いずれもスピリチュアリズムにとって欠くことのできない文書である。なお、翌年の三三年にはナンドー・フォドーの大著『Encyclopaedia of Psychic Science』が刊行され、スピリチュアリズムとサイキカル・リサーチのそれまでの歩みが集大成された。

【5】――インペレーターの『霊訓』の宗教学的考察については、津城、二〇〇五年を参照。