16-霊的治療

霊的治療、より正確に言えば「霊による治療」は、有史以来、様々な時代・文化において見られてきたものであり、簡単に概括することは不可能である。ここでは二、三の事例について触れるに留める。
現在知られている物理・化学的な法則を超えた「超常的」な病気治癒というものが存在するかどうかは、簡単に論じられない。そもそも病気自体、どうして起こるのかも、どうして治癒するのかも、はっきりと物理・化学的につかめていないのであるから、どの治癒は科学的法則内のもので、どの治癒は超常的なものかという判断は不可能である。ガン患者が猛烈な意志を働かせるとかイメージを作るとかの方法でガンを克服したとしても、それが物理法則内に収まる現象(免疫力の増加など)なのか、超常現象なのかは判断できない。
しかしながら、昔から「手かざし」(按手)などの行為を通して、劇的な治癒が起こったという事例は山ほどある。それも、「気の持ちよう」で治るような範囲を越えて、どう見ても「超常的」としか言えないような仕方で、治癒が起こってきた。
それらに対して「神秘的治療」「心霊治療」「サイキック・ヒーリング」「スピリチュアル(スピリット)・ヒーリング」などの呼び方がなされてきた。このあたりのことをまず考えてみなければならない。
超常的な治療ということでよく知られているのが「外気功」治療であろう。治療家は手から「気」という「現行の物質法則では知られていないエネルギーらしきもの」を出し、患者の身体に働きかける。それによって、通常の医学処置では治癒しないものも、しばしば劇的に改善するというものである。この「気」の正体はわかっていない。純然たるエネルギーのように説かれていて、「思念」が生体に働きかける「生体PK」とは異なるようである。霊的存在が関与しているとも主張されていない。
霊による治療は、それとは異なる。まずは治療の主体が霊(かつて医者として活動した人の霊が多い)ないしは霊団であるということが主張される。治療の仕方は様々で、切った張ったの手荒なものから念じる(祈る)だけの静かなものまである。治療はほぼ一回限りで、多くの症状が劇的に改善し、後戻りすることがない(外気功治療はしばしば一時的に改善しても後戻りすることがあると言われている)。中にはハリー・エドワーズの治療のように、骨折や骨湾曲などが短時間に治癒されることもある[エドワーズ、一九八四年]。また遠隔治療(患者が離れていても治療が成立する)が可能である。さらに、治療者は単に通路となるだけで、自らのエネルギーを使うわけではないので、疲労するということがない。
霊的治療は、ブラジルのスピリティスムにおいて、きわめて過激な形で実践されている。ブラジルには数百万のスピリティスト(エスピリタ)がいると言われ、霊媒もかつてのスピリチュアリズム全盛期をしのぐのではと思われるほど輩出し、そのかなりの部分が霊的治療に携わっている[東他、一九九五年]。
治療方法は様々で、中には、メスで眼球をこすったり、ハサミを鼻腔に突き入れたり、ピンセットを頭蓋骨に突き立てたり、といった、見る者の目を背けさせるようなものまである(これらの方法は症状に関係なく行なわれるらしい)。治療に当たっている霊媒はまったくの一般人で、学校教育も受けていないレンガ職人という人もいる。その間は霊に憑依されているので自己意識はない。患者の方は意識がぼんやりとしながらも残っているが、麻酔などをほどこしていないのに痛みはまったく感じない。こういったことがショーではなく延々と行なわれ、たくさんの人が治療に訪れているのである。一時、フィリピンの霊的治療師が日本でも話題になり、患者の体内に手を差し入れるという方法がトリックであるか否かについて議論になったことがあるが、ブラジルでそういったペテン暴きの努力をしていたら切りがないだろう。
これを行なっている霊の側は、次のように主張している。霊による治療は、霊媒(および補助者)のエーテル体(見えない身体。後述)を利用して患者のエーテル体に働きかけ、それを正常化することで肉体を治療するのであって、実際のところ、手術はもとより、特殊な行為がなくても、治療は実現する。あえて手術などの「超常現象」を見せるのは、その方が人間にはわかりやすく、信じやすいからである。霊的治療は病気を治すことばかりが目的ではなく、霊の実在を知らしめるものでもある、と。

霊的治療は、霊の実在や死後存続の「実証的証明」問題とはなじまない。一瞬のうちに驚異的な治癒が起こったとしても、それをやっている主体の実在が証明されたことにはならない。この点はかつての「物理的心霊現象」と同様である。いくら「行なっているのは霊だ」と主張しても、「人間による生体PKではないか」という反論が起こるし、霊媒がその間自己意識を失っているとしても、多重人格説が疑われる。生理現象は不明なところが多いから「自己催眠」や「自然治癒」といった代替仮説も可能である。霊の側は霊的治療の仕組みについてある程度の説明を行なっているが、その基礎となる「見えない第二の身体」(エーテル体などと呼ばれるもの)といった概念は現在では認められていないので、受け入れられる見込みはない。
しかし、病の苦しみから解放されるという至福を味わった人、奇跡的な治療をこの目で見た人は、おそらく大方が霊の実在を受け入れるようになるのではないだろうか。この意味で、霊的治療は、一点一点の地道な闘いと言えるかもしれない。(ある観点から言えば霊的治療は霊や霊媒の霊的成長のために行なわれているとも言える。)
霊の側からの説明によれば、霊的治療は、奇跡的な治病を明示することで、それを体験した人たちに霊の実在を知らしめるためにあるのである。極論すれば、病気が治ることは副次的な問題であり、重要なのは霊的気づきなのであって、その気づきのない霊的治療は、患者の苦しみを軽減するという意義はあっても、霊的意義としては無意味に近いのである。
スピリチュアリズムのバイブルの一つであるシルバー・バーチの霊言にはこうある。
《病気を治すだけでなく霊的真理へ向けて魂を開眼させる生命力について是非理解していただきたいと思います。魂に霊的悟りをもたらせることこそ心霊治療の真髄だからです。身体的障害を取り除いてあげても、その患者が霊的に何の感動を覚えなかったら、その治療は失敗したことになります。もしもなんらかの霊的自覚を促すことになったら成功したことになります。》[『シルバー・バーチの霊訓』①、一二四頁]

なお、「霊がどんな難病も治せるのなら、この世から病気はなくなる。どうしてそうしないのか」といった反駁もある。だが、病気というものは、そう単純なものではない。病気が明らかに当人の不徳の結果で、それを正すために苦闘しなければならない場合もある。また病気が当人の霊的成長にとって必要な場合もある。さらには何か特別な理由があってその病を引き受け続けなければならない場合もある。霊の側は、すべてを治すわけにはいかない、変えられない運命もある、霊的な因果の法則を変更することはできない、と述べている。つまり霊的治療は万能ではないのである。