20-死は恐ろしくない/自殺厳禁

◆死は恐ろしくない

スピリチュアリズムの究極のテーゼは、「人間は霊である」というものになるかもしれない。人間の個性は死後も存続するというテーゼも、霊界と現界は交渉可能であるというテーゼも、この人間=霊というテーゼの派生形と言えないことはない。
人間の個性(定義は今は置いておき「魂」と表現しておく)は肉体の死を超えて存続する。ということは、魂と肉体とは別物であるということである。これはすっとわかるようで、実はわからない、とんでもないテーゼである。
通常われわれは肉体に囚われている。傷や病気があれば痛みや苦しみで打ちひしがれる。普通に生きていても食欲や性欲や快適生活欲に振り回されている。肉体と自分は別だなとどはとても思えない。肉体の諸機能が停止したら、われわれ自身はどうやっても存在し得ないと思われるのである。これは通常のわれわれの感覚であり、唯物論が主張するところでもある。
だが、スピリチュアリズムの諸情報(そして臨死体験や前世想起の報告)では、「そうではない」のである。
通常、人間の魂は、肉体の完全な死の直前に、肉体と分離する。痛みや苦しみが極まって、恐ろしい断末魔がやってくるのではない。それどころか、それはきわめて「気持ちのよい」体験、強い解放感の伴う幸福な体験だというのである(ただしこれはあくまで通常の死の場合であって、自殺や戦闘時の死など強烈にネガティブな感情に囚われての死の場合は異なるとされている)。マイヤーズ通信は次のように述べる。
《普通の人の場合、死に際しての苦しみはないものである。彼らの魂はすでに肉体を離れているので、肉体は苦痛にあえいでいるように見えても、魂はまどろみつつ風に身を任せて飛ぶ鳥のように、彼方こなたへと揺らめく感覚を覚えるだけである。/この感覚は死の原因となった病気の苦しみの後では、何ともいえぬ心休まる喜びなのである。それゆえ、あの断末魔の外見的な苦しみを気に掛ける必要はない。》[不滅への道、九七頁]
通信霊たちが人間のご機嫌を取ろうとして述べたものでないことは、臨死体験や前世想起での報告が同じことを語っていることからも補強される。臨死体験者の多くの報告はこのプロセスをより具体的に述べている。人は解放と安らぎの中で、しばしば自分が残した肉体を眺めたり、周囲の状況を観察したりする。そして、上方の光に吸い寄せられるように、高速でトンネル状の空間を移動していく。美しい花畑の上を飛翔していくという報告もある。自らの遺体を眺めるというのは前世想起の場合もよく報告されるものである。
このことだけでも、ある意味で人類にとっては「大いなる救い」ではないだろうか。死は極限の苦痛でなく幸福な体験であること、そしてその後も「自分」は消滅しないこと(もっとも中には「自分が消滅しない」ということをまったく救いとは思わない人もいるようであるが、それはお生憎様と言うほかはない)。もちろんそれは究極の「救い」ではない。だが、臨死体験者、前世想起体験者の多くが、死を恐れなくなり、人生に対して肯定的な態度を持つようになると言われている。それは「死に対するネガティブな想念」が消去される(しかも強烈な実感をもって)ことが、ある意味で人間にとって「第一の救い」であることを物語っているように思われる。
だから臨死体験研究者たちが、こうした報告を「史上最大の発見」のように受け取ったとしても無理はない。死が壮絶な拷問ではないこと、そして「個性」が失われることがないことが、人類に証明されれば、確かにすべてが変わるほどのインパクトがあるはずである。さらに言えば、個性を重視する近代西洋文明人(およびそれに準ずる人々)にとっては、その存続は大きな意味を持つことは間違いない。この点、個性に固執しない傾向があると言われている東洋人が「個性の死後存続」をどのように捉えるか、定かでない。強固な仏教信徒だったら「個性の存続などは虚妄の継続で地獄だ」と言うのかもしれないが、このあたりはよくわからない。ただし、いくら高尚な宗教的思惟を持って「個性の消滅」(たとえば「絶対との合一」)を願ったとしても、残念ながらそうはならないようですよ、というのがスピリチュアリズム霊学の言い分である。もちろんそれは絶対を主張するものではないから、一人間としては「ようですよ」と婉曲に言うしかないのだが。
ともあれ、「死は恐ろしいものではない」というのが、スピリチュアリズムの初歩命題であり、そのことはある意味では人類に(少なくとも大方の人類に)「よき知らせ」であると思われる。そして、この「初歩命題」はそれ自体なかなか受け入れられにくいものである以上、それが受け入れられれば大成功、ということになるかもしれない。スピリチュアリストの中には、このことだけで充分、その後の魂の行方や霊的な宇宙についての知識など不要であるとする人もいるようである。
しかしながら、そこで終わってしまうのでは、スピリチュアリズムの宝の大半は活かされないことになる。さらに深い霊的知識がないと、「ではわれわれはどう生きるべきか」といった叡智も得られないし、また悪しき誤解も生じることになる。

◆自殺厳禁

最大の悪しき誤解は、死が幸福な体験だと言えば「では早く死のう」という考えが生まれることである。そこで、「だからといって安易に死を選んではいけない」ということをあわてて付け加えなければならない。
どのような事柄にも負の面はあるものである。死は拷問でも消滅でもない、とすると、生の苦しみから逃れるために自殺をしてしまう人も生じる。これは霊が厳禁するものである。
これは霊ないしスピリチュアリストが自殺幇助の罪を着せられたくないから言っているのではない。自殺や自暴自棄の死は、その後によろしくない情況が待っているという、単純な事実からである。
自殺者の不幸なその後については多くの霊信が様々な表現で伝えているし、ケース・バイ・ケースという面もあるので、ここでは比較的単純な説明を引いておく。
《与えられた寿命をみずからの手で切り上げるようなことをすれば、それに対する代償を支払わされます。霊的に熟さないうちに無理やりに次の世界へ行くようなことをすると、(地上での悲しく苦しい期間よりも)永い期間にわたって辛い体験を支払わせることになります。おまけに、せっかく一緒になりたいと思った愛する人(先に他界した愛する人)にも会えないことになります。その摂理に背いた行為が一種のミゾをこしられるからです。》(バーチ④、四五~六頁)
《自殺者は通常自分が死んだことに気づかず、そこへ彼を追い込んだムードだけが雲のように彼を包み込んで、われわれ〔霊〕の側が彼を救済しようと思っても長いことうまくいかない。(中略)不幸なことに通常、自殺者の心はねじ曲がり、全意識が内側に向いてしまっている。真っ暗闇のなかに本人の主観だけがほしいままに働く状態であるから、彼は自ら自己の罪を罰するのであるが、ほとんどの場合はこの罰を自分の行為の結果だと思わずに、彼を取り巻く悪意ある力のせいだと思っている。》[人間個性を超えて、八六頁]
死は「リセット」ではない。魂が抱えていた問題はすべてそのままである。とりわけ、後に述べるように想念は肉体を離れた魂にとって、きわめて重要なものとなる。悪しき想念はこの世におけるよりも死後において一層厄介なものになるのである【19】。
ただし、ここで言う自殺とは、悪しき想念(自暴自棄)に囚われてのものであって、利他的な動機から行なわれるようなものを指しているのではない。自分の病苦を見て愛する人が苦しまないようにとか、人を生かすために喜びをもって命を捧げるといったものは、ここで言う自殺には含まれない。だが、強烈な憎しみを抱えての自爆テロといった行為は、やはりその「憎しみ」に囚われてしまうので、不幸な結果になる。問題となるのは動機やその時抱いていた想念が高潔なものであるかそうでないかである。

【19】――もう一つ、悪しき想念に囚われての死が良くない結果をもたらすというものに、死刑の問題がある。スピリチュアリズムはそもそも死刑に反対する。人間は基本的に他の人間の生命を奪う権利はない(復讐はもちろん、社会正義の保持という場合においても)ということが大前提としてあるからであるが、さらに、より「現実的」にその害が大きいからである。死刑に処せられたことによる怨みは魂の深い傷となり、改悛の可能性を閉ざし、その後の「手当て」をする霊たちを手こずらせる。特にこの世に敵意を持った犯罪者の魂は、死後さらにその敵意を増大させ、しばしば「暴れる」、つまりこの世に悪影響を及ぼす霊となる可能性がある。インペレーターは次のように言う。
《霊にとりて、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。いかなる霊にとりても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心せぬ。われらが死刑を愚かにして野蛮なる行為であるとする理由もそこにある。死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせさらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。(中略)心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまでは肉体という足枷(あしかせ)があった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。》[霊訓、2節]

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