21-霊的身体/この世に似た世界/中間プロセス

◆霊的身体

われわれの人格の主要部分は肉体の死後も存続する。このことは、「では肉体とは何なのか」「死後存続する魂は体はあるのか」といった様々な問いを生じさせる。
肉体を持って生きるということの意義は、より広汎な霊的宇宙観を見た後でないと適切な理解はできない。ただ、ヒトという生物学的存在は、霊的人類という存在が活動する場として与えられたものであるということは押さえておかなければならない。主体は霊魂であって、場である肉体ではない。かつて日本で隆盛を誇った新宗教「大本」は「霊主体従」というスローガンを掲げたが、これはスピリチュアリズムの考え方と一致する。
肉体を抜け出て存続を続ける魂の方は、単に何か純粋な塊のようなものになっているのではない。肉体とは異なる「霊的な身体」を持っている。
この「霊体」問題は、スピリチュアリズムの初期から言われていた。A・J・デイヴィスの著作にも、その他米国のメッセージ集や研究書にも、「霊体」という概念は登場する。カルデックの『霊の書』では「ペリスピリット(半物質的流動体)」という名称で述べられている[カーデック、一九八六年、四六頁]。ただ当初は肉体と霊体という単純な捉え方だったが、時代が進むにつれて、「霊的身体」に関する知見はより複雑なものになった。この点において、十九世紀後半に生まれた神智学は、仏教の「微細身」などの概念を取り入れつつ、先駆的に詳述した。その後、マイヤーズ通信が、霊界の階層構造と絡めてこれを論じ、スピリチュアリズムでも複数の霊的身体を認めるようになった。こうした霊的身体論については後に改めて触れるが、ここでは「魂はある種の霊的身体を持って肉体を離れる」ということだけ確認しておく。なお、肉体に付随しそれを統御している、霊的物質からなる「複体」というものがあるが、これは肉体とともに消滅する【20】。
ともあれ、魂は肉体と異なった霊的身体をまとって、「この世とは異なる世界」へと赴くことになる。

◆この世に似た世界

個性の死後存続ということは、人格の主要部分はそのまま保持されるということである。この「主要」部分が何をさすかは難しい問題だが、おおむね、その人はその人のまま、別の世界へと向かう。ただし、食欲・性欲・睡眠欲といった肉体的欲求はなくなっている。
一部の宗教や現代のニューエイジ神秘主義の一部には、人間の魂は死後「絶対者」(宇宙意識といった表現もある)と「融合・合一」すると主張するものがある。ある意味魅力的な説だが、これは曖昧で非合理な考え方である。曖昧というのは、融合・合一するというのは主体があるのかないのか不明であるし、その際の主体とは「私」とどう違うのか不明である、ということである。そこには何かアクロバティックな説明があるのかもしれないが、そもそもこの説では、死んでしまえばすべて解決、といった非合理が生じる。どんな未熟な魂も、あるいは弁護の余地のありそうもない極悪人も、死によって「絶対者」と合一するというのであろうか。極悪人も聖者もみな天使となって神の一部になり、地上でなしてきたことがすべて帳消しになるのだとしたら、地上経験とは何の意味があるのだろうか。二十世紀の聖人的霊能者ダスカロスは、この「宇宙との合一」論に対して、苦笑して言った。「それなら早く死んだ方がいいことになってしまうじゃないか」。
個性の死後存続説は、この意味では「救済」ではない。確かに死は拷問でも消滅でもないというのは救いである。しかし、未熟な魂は死を通過しても未熟な魂のままであり、さらにその後も「旅」が続くということは、「死んで神のもとに安らう」といった救いではない。
われわれがおおむねこの個性を抱えたまま赴く世界は、当然、この世との類似性を持った世界であることになる。
スピリチュアリズムの霊的情報、特に見知った死者からの通信には、この「魂が死後赴く世界」の具体的な描写が数多くある。そしてそれらが伝えているのは、地上に比べてはるかに美しく、輝きに満ち、洗練された世界でありながら、構成物は地上とそれほど変わらない世界である。魂は衣服を纏い、家に住み、街に出かけ、自然の中を逍遙する。
このような「あの世」の具体性、地上との類似性の報告は、ある種の人々にとっては、とても受け入れられない、馬鹿馬鹿しいものに映るようである。「服を着る? 家に住む? そんな物質的なことに囚われている霊界などがあるわけがないではないか。スピリチュアリズムは個性と物質性に執着した妄想に違いない」というのである。
そうした霊信を受け取ったスピリチュアリスト自体、困惑を感じていないわけではない。G・V・オーウェンは、『ヴェールの彼方の生活』の第一巻で死んだ母親からのメッセージを自動記述によって受け取っているが、その中に霊界で霊が馬車に乗って移動するという記述が出された際にとまどっている。
《私たちも〔儀式の場に〕行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で……なぜ躊躇するのですか、私たちは目撃したことを有りのままに述べているのです。馬車で来る人もいます。お好きなように別の呼び方をしても構いませんよ。〔中略〕空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。》[オーエン、一九八五年、第一巻、二三頁]
霊界というものがあるとすればもっと抽象的で神秘な世界であるはずだ、あってほしい、という思いは、スピリチュアリストでさえ感じないわけではない。しかし、そういうわけには行かないというのが事実のようであるから仕方がない。それに、われわれがわれわれ程度の魂で、きわめて高度な世界へすぐに行けるというのは、傲慢であろう。そういった高度な霊界はその先にあると言われている。幼稚園生がいきなり大学に入るわけにはいかない。小学校はくだらないと言う魂が果たして中学以上のレベルを持っているのかどうかは疑わしい。

◆中間プロセス

われわれはこの世とあの世をつなぐ中間的世界を通過して、それぞれの魂にふさわしい「地上に似た霊界」に赴く。この際の移行プロセスや、向かう先については、実に多様であって、全体を網羅的に述べることはできない。こういう手続きを経てこういう所へ行く、と単純に言えればいいのだが、そういうわけにはいかないのである。地上の世界ですら多様で、その全貌(社会や文化も含めて)を把握できるものではない。人間の魂もまた多様で、それが抱えている想念や感情も多様である。霊的世界がそれに比して単純であるという道理はない。むしろはるかに複雑で多様であるはずである。
ここではいくつかの証言と、大まかな特徴についてのみ述べる。

まずは、地上界から「地上に似た霊界」へ赴く際に通過する中間的プロセスがある。魂はそのまま突然目覚めたように霊界に降り立つのではない。この中間プロセスは、その魂の状態によって多様である。一部の霊信は、「不愉快な体験」もあると報告している。
《肉体の崩壊が始まるとすぐに、短い間だが、人間を一つにまとめ上げていた諸部分の外見上の解体と一時的な混乱の時期がある。》[不滅への道、四二頁]
一説には、地上界と霊界の間に「想念の溜まり場」のような区域があり、そこを通過する際の一時的な体験ではないかとされているが、詳しいことはわからない。
ただし、こうした体験は一時的なものであって、魂はやがてそれにふさわしい世界へと向かい始める。その際、先に他界した配偶者・親族・知人と出会ったり、守護霊的存在に出会ったりする。守護霊的存在は、その魂が特定宗教を信じている場合にはそれに従った姿(キリストや観音や阿弥陀など)を取ることがある。いずれにしても魂は暖かく出迎えられる。稀に、非常に成長した魂はそうした出迎えがなく、高次の霊界に直行する場合もあるという[ニュートン、二〇〇〇年、六八頁]。
ここには「第二の救い」がある。愛する人を亡くした悲しみを抱いている人は数多い。しかし、真に愛していた相手とは、必ず「再会」できるのである。地上での別れはしばしのもの、霊的なつながりは当事者たちが望まない限り切れることはない。
しかも、相手はこちらが最も親しんでいた姿を取る。幼くして他界した子供はそのままの姿で、夫や妻は元気な時の姿で。霊の側は自分の現われる姿をある程度統御できるので、相手に一番ふさわしい姿を選べるのである。
相手がすでに生まれ変わっているために会えないということもない。この点は難解な問題なので後に改めて述べる。
なお、愛していたペットと出会いたいという人も多いようだが、それも叶えられるとされている。二度と顔を見たくない夫や妻とは、特別の事情がない限り会わずに済むらしいのであまり心配する必要はないようである。

もう一つ、移行プロセスとしてあるとされているのが、「地上記憶の再点検」である。これは守護霊の監督のもと、今回自分が生きてきた人生を回顧し、その意味を吟味するということである。神道では「返り申し」と言い、神様に「こういうことをしてきました」と報告するとされている。これに類似したものは世界中の神話に見られるもので、相手は閻魔様であったり、大天使であったり、神おんみずからであったりし、おおむね恐ろしいものとされている。確かに、過ちのない人生を送った人は少ないだろうから、それを回顧し、吟味することはかなりつらい行為であろう。これは救いではなく厳しい罰のようにさえ思われる。だが、そこでの目的は、諸神話が言うような「有罪宣告」や「刑の言い渡し」ではない。魂が自らの未熟さを悟り、さらなる成長の道を歩むためのものである。

【20】――古代中国では、人間の死後「魂魄」は分離し、魂は天に還り魄はしばらく地上に留まってやがて消滅するとされていたが、この「魄」は「複体」に当たるものと考えられる。

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