22-「常夏の国」と「荒涼とした境域」

上記のような移行プロセスを経て、魂は自らにふさわしい場所に赴く。ここで霊魂は再び生気と活動性を回復する。そこは地上に似た要素を持った世界であり、ある意味で「浄土」「極楽」とも言える。マイヤーズ通信は「常夏の国」と表現する。
《平和と満足がこの境界の内に満ちわたっている。金銭の煩いは何もなく、日々の糧を得るために稼ぐ必要もない。……苦痛に悩むことも闘争に巻き込まれることもない。》[不滅への道、四三頁]
魂は似たもの同士が互いに引き合うように集まって生活する。これが「類魂」と呼ばれるものであるが、これについては後述する。地上でのように気の合わない他者との葛藤に苦しむこともない。
霊魂はここで、自らの望むような生活を送る。生前やりたいと思いながら充分にできなかったことに没頭することもできる。音楽、美術、文学、科学、数学といった活動はもとより、好きなだけ葉巻きをくゆらせたり、鳥撃ちを楽しむことさえできるという(表現が古いが)。窮乏や病苦はない。住居、衣服などは、この世界に見合った精妙な物質で構成されており、自らの想像力でそれらを作り出したり、指導霊の助けによって作ってもらったりする。
この世界についての報告はあまたあり、それぞれに異なっている。魂の望みや好みは様々であり、物質的な制約もないのだから、そこが異常に多様な世界となるのは当然のことだろう。そこから一般的な要素を抽出するのは困難であるし、あまり意味もない。何千もの「欧州滞在報告書」から共通項を拾い出してまとめることができないのと同様である。それぞれ驚きと興味が尽きないものなので一読していただきたいと願う。
一つ重要なことを挙げると、その世界において前面に出てくるのは「想念」だということである。「想念」あるいは「思念」は、霊的人間論においてはきわめて重要な位置を占める。霊的視点から見ると「想念」は「半物質」であり、人間はそれを作り放出したり、呼び込んだり、それに囚われたりしている。そして死後赴く世界では、それぞれの想念が環境を作り、自らの身体や衣服を形作るということである。
想念が主となる世界とは、夢のように混乱した世界、移ろいやすくはかない世界と思われるかもしれない。確かにマイヤーズ通信はこの世界のことを「幻想界」と呼んでいる。だがそれは気まぐれで意味がないということではない。個々の想念があらわに働く世界であるということであり、そこには秩序もあり、他者との交流もあり、それなりの「物質性」もある。
この世界の物質性とは、地上の物質よりも精妙で稀薄な物質性と説明されている。「複体」を構成していた「流動性の霊的物質」に近いものと考えられる。そしてこの世界の住人にとっては、それは地上の物質と同様、確固とした物質として捉えられる。
時間や空間も、地上のようなものではないらしい。霊信でよく「こちらには時間というものがない」とか「地上で時間と言われているのは幻想に過ぎない」という表現が出てくるが、そう言われても理解不能である。霊界においても物事の前後関係や相互の隔たりという概念がなくなるわけではなさそうである。結局、地上の物理的時間・空間といった機械的概念が存在せず、ある程度時間を遡ったり、一瞬にしてどこにでも移動できるといった自由性があるということなのだろう。
この世の秩序を超えた世界である以上、それをこの世の言語で表現することも、この世の想像力で把握することも、所詮は不可能であるということだろう。それでも、そこが人間にとってはある種の「極楽」であることは確かである。そして、こういった世界には、ごく少数の「悪に浸り切った魂」以外は行くことができるというのである。
これは「第三の救い」ではないだろうか。古来、宗教は理想的な死後世界に行くために、様々なハードルを設けていた。善行を積むこと、欲を絶つこと、キリストや阿弥陀仏など聖なる存在を信ずること、定期的に儀式をすること、果ては教会の免罪符を買うこと……。だがスピリチュアリズムの霊信は一挙にそれを取り払ってしまう。普通の人々、大多数の人々は皆浄土へ行くのだ。
それは噴飯ものであると言う人もいるだろう。そんなことが本当なら誰も道徳や信仰を尊重しなくなる。いや、何よりも、不道徳者でもそういう所へ行くというのは、公正という理想に反する。この世には悪がある以上、地獄もなければならない。……
スピリチュアリズムでは、キリスト教や浄土仏教が説くような「地獄」はないと明言されている。裁判官が刑を宣告し、永遠に炎で焼かれたり切り刻まれたりするとかいうことはない。それは人間の残酷さの投影であり、「神」への侮辱でもある。だが極悪非道な魂が、生前の罪をチャラにされて「常夏の国」へ行くとは述べていない。そういった魂はそれにふさわしい境域へ行く。

「道を誤った魂」の死後のプロセスも、また多様だと言われている。また、多くの霊信はそのことについてあまり積極的に述べようとはしていない。これまでの宗教がこの「脅し」を乱用して散々悪事をなしてきたからだろう。スピリチュアリズムの霊信はネガティブなことを言うことを極力控えている。
生前、低級な欲望に執着したり、他者を支配したいとか苦しめたいといった身勝手で残酷な思いに浸り切った魂は、死後もその性向を持ち越してしまう。個性が存続するのであるからこれは当然である。そして霊界の法則に従って、これらの霊魂は同類と引き合い、自らの想像力を駆使して環境を作り出す。するとそこは、粗暴で暗く、恐ろしい「境域」となる。彼らはそこで相変わらず低級な肉体的欲望や自己中心的な野望を満たそうとするが、物質を離れた世界ではそれは満たされることはない。渇望だけが肥大し、魂の苦悩は一層ひどいものになる[不滅への道、五二~五三頁、霊訓、四五~47頁、ヴェールの彼方、第三巻第八章]。
そうした魂は見放されているわけではない。救済に当たる高次の霊がいるが、粗悪なものしか見ようとしない魂は、いくら手間暇かけて救おうとしても、なかなか応じない。自らが自らを救うことを妨げて、渇望の泥沼に居続けるのである。ただしこのもがきはそれ自体が償いではない。気づきのために不可避なものである。
長いもがきの末にようやく気づきが訪れても、彼らの前にはさらなる試練が待っている。それは、自分の非道行為の犠牲者が味わった苦悩を、自らのものとして味わわされるということである。自らの手によって苦しんだ人々のすべての苦しみを味わう、それは地獄にも等しいプロセスかもしれない。だがこの苦悩と悔悟を通過しないと、魂は次のステップへ進むことができない。マイヤーズ通信は言う。「彼(残酷者)の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められていくものである」[不滅への道、五四頁]。
あらゆる救いの手をはねのけ、悔悟を拒否し続ける魂はどうなるか。インペレーターは次のように言う。「中には善なるものへの欲求をすべて失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んでいく者もいる。そしてついには意識的自我も失い、事実上、個的存在が消滅していく」[霊訓、四六頁]。マイヤーズ通信も同様のことを述べている[人間個性を超えて、九九頁]が、中間世研究者のマイケル・ニュートンは「解体される」という表現をしている[ニュートン、二〇〇一年、一一四頁]。ただしいずれもこのような例はきわめて稀だと言う。

こうしたプロセスは悲劇ではあっても地獄ではない。審判者が何かを判定して罰を下すのではなく、魂は自ら自分を苦しめ、自ら責任を取らされるということである。「人は蒔いた種を刈り取るものだ」という古い知恵の言葉は、霊的な真理であり、スピリチュアリズムのいくつもの霊信が述べているものである。過ちは、たとえこの生のうちでなくとも、いつか自らが償うものである。
従って、悪人(この言葉は正しくないがそのことは後述する)が罰せられずに逃げおおせることは、人間的には許し難いことであるが、霊的には「放っておけばよい」ということになる。「神の法(霊的法則)は公正」とはどの霊信も述べている。逆に、悪人にしかるべき苦行を与えて(この生のうちに)悔悟させることは善いことだが、人になした苦悩のお返しとして苦痛を与えること(拷問)は、人間がなすべきことではないことになる。

「常夏の国」に戻れば、これは見方によっては極楽浄土だと述べた。しかし、ではなぜ人間はそこにずっと居続けることが許されないのだろうか。なぜこの世という、苦しく粗雑な世界で生きなければならないのか。
この問いは大問題なので後に改めて述べることにするが、ここでの一応の回答は、それが霊魂の成長にとって望ましいとされているからだ、ということになる。
マイヤーズ通信は次のように言う。
《「常夏の国」は……旅中の単なる休憩所にあたるもので、魂はそこで地上生活を夢の中で追懐し、その情的な無意識生活を総括する。……あくまでもその旅程を先に進めるために夢を見るのである。》[不滅への道、四五頁]
《しかしこうした平和の中にいることも、やがて退屈になってくる。なぜなら夢の陶酔境においては、何らの現実的進歩も変化もないからである。まるで池の中に住んでいるようなもので、波立たない静かな水面にかえって退屈してしまう。そこで闘争や努力や陶酔が欲しくなる。広い天地が恋しくなる。先に進みたいという欲求が再び湧いてくる。つまるところ、上へなり下へなり進みたいと思うようになるのである。》[不滅への道、四三頁]
「上へなり下へなり」というのは、「より高次の世界へ行くか、現世に生まれ変わるか」ということである。ここからがスピリチュアリズム霊学の第二段階ということになる。
なお、一部の霊魂は、この「幻想界」が「最終ステージ」だと錯覚してしまうことがあると言われている。「ここは神の国だ、ここでずっと神への祈りを捧げて(あるいは神秘を瞑想して)暮らし続ければよいのだ」と思い込み、さらなる成長への意志を捨ててしまうのである。とりわけ、特定の宗教教義に凝り固まった魂や、「生を超越した解脱の境地」ばかりを求める魂は、このような陥穽にはまりやすいと言われている。これを破るのは容易ではなく、魂がそのことに自覚し、成長への道に復帰するのは、途方もない時間がかかるというのである。これは宗教の弊害として注意しておくべきことかもしれない。