28-神

スピリチュアリズム霊学は霊学であって、神学ではない。スピリチュアリズムに神学は存在しない。
マイヤーズ通信の「彼岸」の説明を見ても、神は「最高観念」「純粋知性」と呼ばれているが、それに関しての説明は何もない。そもそも言葉では説明できないもの、人間の拙劣な知性では捉えることのできないものだからである。というより、高級霊でもその存在を把握できないのである。「神との対話」などという不遜な言葉がスピリチュアリズムから出てくることはない。
インペレーターは次のように述べる。
《われらとて、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去のすべてを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅する、と。が、それ以上は何一つ知らぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。汝らはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい。》[霊訓、三二~三三頁]
キリスト教の中に「否定神学」というものがある。「神は~である」という言説はすべて絶対である神を限定・相対化してしまうものであるがゆえに、「神は~でない」という仕方でしか表現できない、というものである。この考え方はスピリチュアリズムとつながるところがある。スピリチュアリズムではしばしば「絶対存在」「宇宙創造主」「唯一の実在」といった言い方がなされるが、それは神の絶対超越性を示す表現であって、それを敷衍して神学を展開することはない。神は人格ではないし(ましてや人間の形に似たものでもない)、機械的な法則でもない。神がいかにして宇宙を創造したかとか、それはなぜかとか、どのように宇宙を統御しているかとか、この宇宙をどうしようとしているかとか、そういった問いや説明は、無意味なのである。
ただし、高次の霊的存在には、神の実在はきわめてはっきりと感覚できるものだと言う。それは至上の光のようなもの、強烈な影響力のようなもの、尽きることのない慈しみあるいは愛のようなもの、しかしそういったものよりはるかにに偉大なものとして感じられる。そして神の偉大さへの崇敬・帰依は高次の世界に行けば行くほど深いものになると言う。
人間には神をはっきりと把握することは不可能である。「神の実在証明」は一時西洋で論議された主題であるが、これは無理であり不遜であろう。そもそも「神」は定義不能であるし、何をもって「証明」となすのかも定義できないのだから、命題そのものが成立しない。理解もできないものを存在すると認めたり、敬慕したりすることは愚かだという考え方があるが、狂信に陥らずそういうものをぼんやりと認めることはむしろ知性の柔軟さや成熟を示すものではなかろうか。神の存在を強弁したり熱烈な崇拝を捧げたりする必要はないし、そういったものは無用ですらある。われわれとすれば、われわれよりはるかに高度な存在が「神は実在」と証言しているのを、「はあ、そういうもんですかねえ」と素直に聞き入れておけばいいのではなかろうか。
このような「神の絶対化」は、神と人間との間に断絶を作るので好ましくないと主張する人もいる。不完全なものであれ、神の慈愛や叡智や力を理解すべきではないか、と。しかし、そうした不完全な把握が神信仰を歪め、幾多の悲惨と愚劣を生み出してきたことは間違いない事実である。フランス二十世紀の思想家ジョルジュ・バタイユは、「人間の思いや願いに適合するようなものとして神を考えることこそ、人間が神を考えられなくしている元凶である」というような旨のことを言っている。
身近で具体的な信仰は、それぞれの守護霊に向ければよい。一人一人を見守り、神の光へと目を向けさせ、魂の成長への道を歩むように助けてくれるのは、それぞれの守護霊である。そして守護霊への信仰は、他者の信仰を抑圧するものではないし、余計な教義や組織や儀式に頼る必要もない。自分の専属天使では満足できない、宇宙の絶対者が自分に関わってくれなければいやだ、というのは、あまりに傲慢、身の程知らずではないだろうか。日本人はもともと「ご先祖様」や「産土の神様」といった身近な高級霊に祈りを捧げていたが、この謙虚さと霊魂観の繊細さは美しいもののように思われる。
なお、神の問題に絡むスピリチュアリズムの既成宗教批判については、後に改めて論じる。

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