29-人間の意味と責務

われわれ人間は、この「水の惑星」に偶然生まれた存在ではない。広大にして重層的な宇宙の中に、一つの「特殊形」として霊的営みを続けている、小さな存在に過ぎない。
われわれが依拠しているヒトという生物種が、長い進化過程で原初生命から発達してきたことは疑い得ない。しかし、われわれは偶然生まれたヒトという生物種の「脳の中の幽霊」ではない。すべての生命体は神的知性による意図的設計によって創造されてきたのであり、ヒトという種が(原人から断絶的・飛躍的に)創造された時に、われわれの霊魂はそれに依拠して霊的経験を積んでいくべくこの物質的地球に降り立ったのである。(それがどこから来たかは明らかにされていない。同程度の他の星界ということもありうるであろう。)
われわれ人類は、ヒトという生命種と不可分に存在している。それは、他の動物と同様に生存にまつわる様々な欲求を抱えている。食欲、性欲、縄張り欲、意思疎通欲、集団形成欲……。それらはわれわれの行動の大方を支配し、様々な愚行、悪行を発生させる。
しかし一方、われわれは霊魂として、より高次の霊的資質を持っている。あるいは少なくとも、より高次の霊性と交流している。われわれは愛(寛容と慈悲)や道徳性や創造性といった霊的価値をおぼろげながらに感知している。そのゆえに、われわれは生物体由来の欲望とそれによる営みを「悪」と捉えることができる(動物は一定のルール内での略奪や闘争は悪と捉えない)。しかし、われわれは「悪」や「愚行」を犯さずに生きていくことは難しい。「悪」や「愚行」にまみれつつ、霊的な価値を希求していくという、ある意味苛酷な営みが、われわれには科せられている。
上記のことはあまりにも単純化された、陳腐な見方かもしれない。しかし、人間という場において「高次」と「低次」とのぶつかり合いがあることは、否定しようのないことであり、そうした「垂直軸」(価値)を否定することは暴挙である。
重要なことは、「高次」(「霊性」と言ってもいい)とはどういうものかをより明確に理解することであり、また「低次」(「物質性」)の意味を考究することであろう。
多くの霊信が述べている「霊性」の基本は、「肉欲への惑溺や我欲を抑えること」である。これはわれわれが「ヒト」という生物体に依拠しつつ霊的成長を果たすという基本構造から必然的に導き出されるものである(「我欲」というと人間的なものに聞こえるが、それも基本的には生物的な諸欲求の変種と考えられる)。ただし、スピリチュアリズムが主張することは、あくまでそれへの惑溺や過剰な執着を排除せよということであって、肉体や自我そのものを否定しているのではない。しばしば宗教では「我欲」を諸悪の根源とみなし、その「滅却」を説くが、それは「われわれがヒトに依拠しつつ霊的成長を果たす」という基本とは相容れない。肉欲や我欲のない状態で生命活動を営むのは、より高次の霊界での話であり、われわれの魂はまだそこまでの成長を果たしていないか、あるいは成長しているがあえてここに来ているかのどちらかである。諸欲を滅却せよと主張する人は、いったい滅却後にどのようなことをなすのであろうか。
スピリチュアリズムでは、そうした「滅却」論ではなく、現実の人生において追求すべき霊的価値を説いている。それはしばしば「愛と智と力」という(いささかお説教臭い)表現でまとめられる。
「愛」という言葉は甘ったるく、俗臭にまみれているが、霊の説く愛とは、男女間や親子間のものでも、仲間同士のものでもない。それは「敵をも愛す」愛、自らに害をなすものにも向けられる愛である。そんなものは人間にはほぼ理解も実践も不可能だから、むしろ「寛容」や「深い共感」「思いやり」といった表現の方がふさわしいかもしれない。それは、相手の存在の意義をより高次な知的把握によって理解・受容したり、相手の体験に共感を抱いたり、相手の霊的成長を願ったりすることである。魂は高次霊界で類魂と体験を共有し、知性や感情の能力を拡大し、より大きな霊的共同体の中に参入していく。その際の働きがこれである。スピリチュアリズムの霊信がしばしば「奉仕」を第一の責務として挙げるのは、こうした「魂の共感性」を開発するという意味もあるのであろう。
「智」とは知識ではない。様々な知見を総合して複雑な全体性を把握し、個別な事象の位置や意義を理解したり、新たなより高次の知を創造したりする知性的働きである。知性は神の本質であり、宇宙は知性によって統制されている。マイヤーズ通信が、霊の最高世界を「純粋理性の世界」と表現しているのはきわめて意味深い。
「力」とは活動力、創造力である。静寂・諦観は霊的成長には資するところ少ない。霊信はしばしば「霊的な叡智をいくら得てもそれを行動に移さなくては意味がない」と語る。行動は苦悩や過ちを生むかもしれないが、そうした苦難なくしては成長できないというのである。また創造力・想像力は、「神の本質」であるとも言う。全宇宙の存在が神の創造力・想像力に依拠しているのであるから、われわれもまたそれを習わなければならない。芸術に代表される創造行為は、「神のまねび」であり「神への道」でもある。
もう一つ付け加えておけば、「感情」もまた、霊性の重要要素である。われわれは感情を「理性を失わせるもの」「どろどろとしたもの」と捉えたり、「喜怒哀楽」のような単純なものとして片付けているが、マイヤーズ通信の「火焔界」に見るように、感情(「感情的思考」「知的感情」「類魂との感情的融合」)は、霊的な働きとしてきわめて重い意味を持つ。確かに、われわれが芸術や霊的書物などを享受する時、何よりも感情を揺り動かされるのであり、それがあるかないかが対象の質を決定するのではないだろうか。また他者との関わりにおいても、複雑な感情がわれわれの態度を決定しているのではないだろうか。おそらくわれわれはまだ「感情」というものをひどく粗雑な仕方でしか理解できていないのであろう。そして、より繊細で多様な感情のありようを発見していく必要があるように思われる。

こうした高次の「霊性」をわれわれは獲得していかなければならない。しかもそれを、この地球という鈍重な物質環境で、ヒトといういまだ獣性を強く残した生物種を場として。
なぜもっと苛酷でない、物質的桎梏の少ない環境から始められないのか、それは不明である。至高の源泉からもっとも遠い境域を創ること、そしてそこに源泉からの光を差し入れていくこと、それが神の創造の本質なのかもしれない。太陽の光熱が土壌にわずかずつ滲み込み、不毛の闇を生命の蠕動で満たしていくように、鈍重な物質の中に、荒涼たる獣性の中に、霊性を浸透させていくことが、創造の一端を担うわれわれの課題なのかもしれない。シルバー・バーチは言う。
《一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。》[バーチ①、一五六~七頁]
《あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。》[同、四六頁]

現代ギリシャの聖人霊能者ダスカロスは、こうした人間の宿命を「放蕩息子の譬え」(ルカ福音書15―11~31)によって象徴的に示している。一般に「放蕩息子の物語」は、信仰を失った者がそれを取り戻せば、信仰を忠実に守り続けた人間よりも、神はよりいとおしく思うものだ、という譬えだと解釈されている。しかし、霊的に読むと物語はかなり違うものになる。
神のもとには、もっと物質性の稀薄な世界に生きて成長を続けている魂もあり、より高次な世界にいてこの宇宙の進行を調整しているような大天使的存在もいる。それは「父のもとに居続ける兄」である。しかし人間は、神からはるかに離れたこの重く粗雑な世界でわざわざ生きることを選択した「弟」である。それは魂の成長には有益だが、苦しみや挫折も多い。しかしそういう苛酷な世界を生きて、成長を果たして神のもとへ帰ることができれば、その経験は素晴らしい達成となる。高次の世界で神の手助けとして精妙な営みをしているが物質の苦しみを知らずにいる天使的存在よりも、汚辱と誘惑にまみれながら神への帰還を果たす人間の魂(それはきわめて少ないかもしれないが)の方が、むしろ偉大とさえ言えるのである。神は身近な天使たちをさしおいて、それ喜んで迎えてくれる。人間は物質世界の中に一度死に、そして生き返って神へ向かうのである。

この濃密な物質世界を生きることは、他にも利点があるとされている。
その一つは、「緩慢さ」である。物質は非常に重く、変化させることは難しいが、逆に安定している。この「緩慢さ」が、まだ未熟な魂にはふさわしいという。高次な世界では、物質(にあたるもの)は、当人の思念に応じて迅速に変化する。これは確固とした思念を持つことができない人間にとっては扱いづらいものである。一般の人間の思念は、移ろいやすく、過激に進んでみたり後退してみたりと無駄な動きが多い。鈍重な物質世界は、この動きを押さえつけ、ゆっくりと着実に進むように仕向ける。この足枷ゆえに、魂は一歩一歩の前進を成し遂げていけるのである。
またもう一つは、様々なタイプやレベルの魂と出会うことができるということである。この物質世界は、きわめて「民主主義的」な世界であって、どのような魂に対してもその性質を変えない。雨は善人にも悪人にも同じように降る。想念が環境を大きく変える霊界では、たとえば粗雑な魂は精妙な境域には入っていくことができない。この「共通場」において、魂はまったく異なる魂と出会う。地上はいわば「ごった煮」「闇鍋」なのである。そしてそれを通して魂は、霊界では学べないことを学ぶという。自分とあまりに異なった他者と接することは、新鮮な驚きであることもあるが、大きな苦痛をもたらすこともある。しかし、その苦痛が成長への動力でもあるということである。

そうした人間存在として、われわれは何をなすべきか。このことに関して、スピリチュアリズムの霊信は、ある意味できわめて穏当な勧めを述べる。
ホワイト・イーグルは独特の優しい語り口で述べる。
《皆さんの進む人生の道とは、自分ひとりの喜びのためだけでなく、世のため人のため、その幸福のために尽くすこと、またすべての生命の霊的進歩に貢献することです。これこそ、神が魂の上に課した責務です。すべて世の進歩というものは、神によって生きる個々の魂の上にかかっているからです。》[クック、一九八六年、七二~七三頁]
インペレーターは次のように言う。
《徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。……われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。
父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務
同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務
(意見を異にする人に寛大であること、他人の疑わしい言葉や行為を好意的に解釈すること、人との交際において親切であること、報いられると思わずいつでも人を助けること、振る舞いが丁重で優しいこと、目的の正直と高潔さが愛情ある親切と忍耐で和らげられていること、人の悲しみを理解しうる同情心をもつこと、慈悲・哀れみ・優しさを持つこと、それぞれの領域の権威に対する敬意、また弱者の権利に対する敬意を持つこと。)
身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務
知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務
より深き真理を求める(霊的開発)…… 自己への義務
良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)…… 自己への義務
祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)…… 自己への義務
以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる【29】。》[霊訓、八三~八四頁]
哲学的なマイヤーズ通信は、「叡智」「全人格的発展」の重要性を説く。
《幸福は努力を通してのみやってくる。すなわち、感覚的な快楽への惑溺を叡智をもって抑制すること、肉体を健全に発達させるための運動をすること、精神の進歩のための勉学、そして他人への寛大さや慈愛ある見方をすること、などを通して幸福はやってくる。これらの進歩が霊の発達を促すのである。》[不滅への道、一五九頁]
《清教徒であれ快楽主義者であれ、本性の一面しか持たず、人生や永遠を一つの見方でしか見ない人たちは神の国から遠く隔たっている。》[人間個性を超えて、二一八頁]
《愛する者、孤高に住せんとする高慢者、快楽主義者、禁欲主義者、聖者、賢者といった魂の六つの形態を表現し、また、できる限り賢者がすべてを支配するのに任せるこの世の叡智の探求者を表現しようとすべきである……》[同、二二七頁]

システマチックな儀礼・修行とか、非日常的な苦行とか、成長を判定して厳かに授けられる秘儀伝授とかは、一切説かれていない。むしろ古来の道徳家の教えや民衆的金言に近いとさえ言えるかもしれない。宗教的な色彩を持つものとして唯一奨められているのは、祈りと瞑想だが、それも何らテクニカルなものではない。心を鎮め、神ないし守護霊に向かって心を開くというだけのことである。
宗教やオカルトの愛好家には、実につまらないものと映るであろう。難解な議論や深遠な仕草、荘厳な実演などを好む人たちには、スピリチュアリズムは魅力がないようである。思想的な斬新さや独創性を求める人たちにもそうらしい。「幼稚」と映るのか、「身も蓋もない」提示にたじろいでいるのか、個人の独創の余地がないことが不満なのか、そのあたりはよくわからない。
しかし逆に、こうした教えは、平凡であるがゆえに最も難しいものとも言える。果たしてこうした教えに胸を張って「然り」と言える人がどのくらいいるのかは、(自らも含めて)疑問である。
スピリチュアリズムが説くところは、要するにまずは「人格の陶冶」である。スピリチュアリズムは「霊との交信」を重要視するので、もちろん霊能力に対しては肯定的である。それは貴重な能力であり、そういう「贈り物」をもらった人にはそれを有効活用する責務があるとしている。また人類が進化していけば霊能力は多くの人が身に付けるだろうとも言っている。しかし、霊能の開発よりもまず重要なのは、人格の錬磨だと言うのである。人格という土台がなければ、霊能はしばしば誤ったものになるし、危険なものにさえなるのである。

とはいえ、スピリチュアリズムの霊信は、どうやったら「この世での修練」を卒業できるのか、具体的に説いてはいない。「こうなれば“上がり”ですよ」という提示はない。「我欲を滅却して“さとり”を獲得すれば」とか、「神を信じて善行のみを行なえば」といったことすら言わない。「この世で学ぶべきことがあるのでこの世に生まれる」という言い方をひっくり返せば、「この世で学ぶべきことがなくなったら」という条件説が導き出せるが、「学ぶべきこと」の具体的な要件は述べられていない。
魂の成長の道はそれぞれに異なるから一般的な言い方は害あって益なしなのかもしれない。宗教が「条件の定式化」によって硬直し堕落した経緯を踏まえて、一切の定式化を避けようとしているのかもしれない。われわれの限定された意識や知性では捉えられないということなのだろうか。「自分で探究しなさい」あるいは「それぞれの魂は知っている」ということなのだろうか。
物足りなさ、頼りなさを感じる向きもあるだろうが、逆にそこにスピリチュアリズムの深遠さを見ることもできるのではなかろうか。

【29】――日本語訳本には同胞愛の説明として括弧にくくられている部分が脱落しているので、原書から補った。