30-霊界と現界の交渉――憑霊と脱魂

死者の魂を含めた「霊的存在」の世界と、この物質的世界とは、どう関係しているのか。
これは実は途方もない大問題である。かなりの部分の宗教、特に大衆的現世利益追求型宗教は、いかにして超越的な世界の存在に働きかけ、あるいはそうした世界の力や知識を獲得し、それによって現世を過ごしやすいものにしようかと腐心する。「神様にいいことがありますようにお願いする」という普遍的な“信仰”は、基本的には霊的世界に働きかけ、現実を変えてもらおうとする人間の欲求に根ざしている。民俗信仰から高度な「神秘学」まで、ベースは同じである(こういう志向に対してスピリチュアリズムは批判的であるがそれは後で述べる)。そのために様々な儀礼や修行や秘儀といった「テクニック」が編み出されてきたわけであって、つまり宗教の大部分は、「現界と霊界との交渉」と「霊界への働きかけ(操作)」の可能性を前提としているわけである。
スピリチュアリズムの霊信でも、霊界と現界の交渉は重要な主題の一つである。ただし、それは上記の位相とはまったく異なる。スピリチュアリズムにおいては、主体はあくまで霊的世界であり、地上の現実世界は、その派生形の一つに過ぎない。マイヤーズ通信の「形相界」の説明において、「そこは地上世界の源となる世界であることに気づくであろう。簡単に言えば、地上とは精妙な身体に精妙な魂の宿るこの世界の、醜く汚れた模写図である」と言われるように、むしろ現実世界のすべての現象は霊的世界に源泉を持ち、それが現実世界に稚拙な形で反映するに過ぎない。霊的な知や力は常に現実世界に降り注ぎ、すべての現象を左右している。インペレーターの霊信はもっと素っ気なく言う。「知識はすべて霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、汝らはその影に過ぎない」[霊訓、二七〇頁]。要するに、霊界は常に現実世界に圧倒的な力をもって働きかけているのである。
ただし、それはわれわれ人間に理解しうるものではない。目に見えるものでもないし、測定できるものでもない。仕組みや法則もほとんどわからない。すべての現象が霊界に起因するとしたら、たとえば戦争のような大惨事にも霊界が関与しているのかという疑問が生じる。シルバー・バーチは戦争は人間の我欲が起こした、人間の過ちなのだと説くが、二十世紀の大戦争が高次霊界の意図したものだと匂わせるような霊信もある。人間の愚行には基本的に介入しないのか、惨劇もまた霊的進歩のためということなのか、そのあたりはよくわからない。われわれは霊界からの働きかけ(スピリチュアリズムの隆盛や前世記憶への注目などもその一端と言えるだろう)をおぼろげに看取することはできたとしても、その意図や仕組みについてはほとんど何もわからないのである。

そうした広大な、目に見えず理解も不能な「霊界からの働きかけ」とは別に、きわめて現実的な、目や耳に感じ取れる「霊界との交渉」もある。人間の「霊能力」によって(あるいはそれを媒介として)引き起こされる現象である。これについて改めて考えてみる。
霊界との交渉には「霊界に行く」という方向と「霊界が来る」という方向の二つがあると、スピリチュアリズム研究家の梅原伸太郎は述べた[梅原、一九九五年]。人間の霊魂が身体を抜け出して霊界へ行く、つまり「脱魂」と、霊界の霊が現実界(特に人間の身体)に来る、つまり「憑霊」である。
この概念は、宗教学における「シャーマニズム研究」の中で提出され、議論されてきたものである。欧米の研究(特に初期)では、「脱魂」型、つまり肉体を離れ霊界に行ったり、病人・死者のさまよえる魂を引き戻したりするスタイルの超常能力者が主眼となっていた。研究の発祥となったシベリアやアメリカ先住民文化ではこのスタイルが多かったからである。これに対し日本の研究者は「イタコ」「ユタ」などの事例が多いことから、憑霊型能力者(霊媒)も研究の中に加えるべきだと主張した。
脱魂型の霊能者は、体外に抜け出している間も、意識は保持されている。そして透視をしたり、予知をしたり、霊界に行って霊とやりとりをしたりする。主体の意識が確乎と保たれており、能動的である。これに対して憑霊型能力者は、霊が憑依している間、基本的には当人の意識は失われている(熟練した霊媒や自動書記霊媒の場合は意識があることも多い)。語ったり何か現象を起こして見せるのは「霊」そのものである。
宗教学のシャーマニズム研究が、脱魂型に重きを置いたのは、二つの理由があると考えられている。一つは、西洋文化が、主体意識の放棄・喪失というものに忌避感ないし拒否感を抱く傾向があること。人間というものは、しっかりした自意識を持っているべきものであって、意識が消えたとか記憶がなくなるといった曖昧さは、胡散臭く感じるのであろう。そしてもう一つは、脱魂中の体験は、あくまで当人の内的体験であるということ。脱魂したシャーマンが「こういう霊界へ行った」「こういう交渉をした」と言っても、それはあくまで当人の主観的体験である。実在か否かを議論するものではない。これに対して、憑霊型の能力者は、「霊」がかなりなまなましくそこに現出する。死者のごとく語り、様々な超常現象が起こる。これに対して忌避感が強く働くことは当然である。
逆に、スピリチュアリズムの立場からすれば、脱魂型の情報は、あまり価値が高くない。そこでもたらされた情報は、しばしば当人の主観・意図によって脚色・歪曲されるし、そもそも人間の意識や知性レベルでは霊界に接触できたとしてもそれを正確に感得することは不可能であるからである。それよりは、物質的手段や言葉を使って表現するという困難さはありながらも、霊が直々に来て情報を伝えてくれる方がはるかに正確である。幼稚園児が大学院に行って見聞した報告と、大学院生が幼稚園に来て行なう教えと、どちらが正確かは容易にわかるだろう。

こういった「霊能力」は、どういう仕組みで発現するのかについては、霊信に様々な説明がある。基本的には、「霊体」(エーテル体)が鍵となる(霊的身体には多種あるが、ここでは細かい説明は省略する)。
人間には物質の体とは別に、霊的な体が備わっている。死後の魂はそれを持って霊界へ行くことはすでに述べた。この「霊体」は、通常、肉体とぴったりと重なっている。ところが、一部の人間は、これがずれやすくなっており、何かのきっかけ(事故や病気といった場合もある)で分離すると、脱魂が起こる。体外離脱体験(OBE)や臨死体験はこの脱魂の一種である。肉体を抜け出した魂は、現実界を見ることもあるし、霊的世界を見ることもある。透視や予知が可能になる場合もある。部分的な脱魂(少しずれるだけ)でもこういうことは起こる【30】。
憑霊の場合はどうか。実は憑霊の場合も、脱魂が最初に起こる。ただし脱けた魂は不活動状態になり(眠っていたり夢を見ていたりする)、そこに霊が入るということのようである。
霊信によれば、憑霊型霊媒は「エーテル質」(霊体を構成する半物質)を通常より多く持っており、身体からはみ出すほどになっていると言う[人間個性を超えて、八〇頁、他]。これは霊の目で見ると闇の中に光っているように見えるらしい(当然、よからぬ霊も引き寄せることがある)。霊の意志にフレキシブルに反応するこの余剰エーテル質を利用して、霊は霊媒の声帯を操ったり、様々な物理的現象を起こしたりするのである。
こうした「霊体」の少し異常なありようは、おおむね先天性のものである。脱魂にしろ憑霊にしろ、だいたいは生まれつきの素質である。特に優秀な憑霊型霊媒は「born-medium」と呼ばれ、そういう役目を背負って生まれてきているようである。修行をして霊能力を獲得する人もいるが、質においても力においても、生まれもっての素質にはかなわないと言われている(たとえば佐々木宏幹のシャーマニズム研究を参照)。
先天的な能力というと、不公平に感じる向きもあるかもしれない。しかしそれは、魂に与えられた「使命」なのであるから、やむを得ない。運動能力や芸術表現能力などと同様であって、人はそれぞれなりの才能を持って生まれ、それをどう扱うかが人生の課題となる。ただ素質を持っているだけでは無意味であり、それを用いて「いかに魂の進化・成長を果たし、他者のために何をなすか」が問われているわけである。霊媒の才能を持って生まれてきた者は、それにまつわる様々な困難を克服しながら、いかに世のために役立てるか、チャレンジしなければならない定めにあると言える。それを無視・回避していると、霊の側からの督促が来ることもある。しばしばそれは病気という形を取ったりもする。これを「巫病」と言い、沖縄のユタなどでも、もともと素質がありながら避けている人が、重い病気となり、覚悟を決めてユタの道を歩むと治ったという話はよくある。
実際のところ、霊媒への道は容易ではないようである。ただでさえ、普通の人には感じられないものを感じてしまう。人のネガティブな想念なども拾いやすい。さらには、身体からはみ出したエーテル体に、地上に強く執着しているあまり高級でない霊が集まってくることもある。霊的な役割を担った人にはそれにふさわしい指導霊がつくというが、指導霊との関係が確立していなかったり、霊媒が低級な思いにとらわれ、自ら精神レベルを下げるような行為に及ぶと、危ない事態が起こる。霊媒は得難い存在であり、人類に役立つ存在であるが、「霊」を認めない現代においてはなかなか理解も庇護も得られないので、同情すべき余地は多い。

【30】――「金縛り」は脱魂の前駆状態、あるいは経度の脱魂状態であり、こうした状態で「霊」を見ることが多いのはよく知られている。

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