33-スピリチュアリズムは宗教か

■第四章 スピリチュアリズムと宗教

宗教というものは人類にとってなかなか厄介なものである。昨今の国際情勢を見ても、キリスト教対イスラームという一神教兄弟同士の葛藤は深刻なものになっている。ごく素朴な目から見ると、「宗教は人が殺し合う口実になっているのでは」という疑問が生じるのも当然のことである。また日本ではあのオウム真理教事件を筆頭に、宗教教団が犯罪を犯す事例が目につく。「宗教は詐欺謀略の温床ではないのか」という思いも多くの人が抱くものであろう。宗教は必要なのか、不要なのか。
かつての社会ではそうではなかったが、現代では宗教というものは「オプション」になりつつある、つまり、かなり個人の自由選択に任されるものになっている。二〇〇八年六月の読売新聞の世論調査では、日本人の七二%が「特定の宗教を信じていない」と答えている。一方、近代化の先端を行っているはずの西洋では、「無神論」を標榜する人が確実に増えてはいるものの、それはいまだに何かしら反社会的な行為だと見なされているようである。
ジョン・レノンが歌ったように、宗教がこの世から消滅することを夢見る人は、案外多いかもしれない。宗教は集団殺戮を生み、思想の自由を抑圧し、一部の者に不正な富をもたらす、悪しきものであり、早く人類はそういうものに頼らないで済むようになってほしい。宗教や神を「妄想」であるとする唯物論者がそう思うのは当然である。また、それらを妄想とは思っていない人の中にも、現在の宗教のあり方を肯定できない人はいるだろう。前述の読売新聞調査では、「日本人は宗教心が薄いとは思わない」と答えた日本人は四九%に昇った。そのうちのどのくらいが「神や宗教は妄想」と考えているのかは不明である。おそらく、「神が妄想かどうかはよくわからない。たぶん妄想なのかもしれない。今の宗教のあり方は感心しない。けれども、宗教の底にある何かは人間にとって必要なものだ」というような心情なのだろう。
唯物論的色彩の強い現代の考え方では、「神や宗教は人間が作り出したもの」であり、極論すれば「妄想」ということになる。現代人より幼稚だった古代人は、死の恐怖や、自然の猛威や、運不運の気まぐれに、何とか対抗しようとして、様々な「心理的ドラマ」を作った。死によってすべてが消滅してしまうという恐怖に抗するために「あの世」が生み出された。天変地異への恐怖が「神」を生み出し、「もてなし」や「取り引き」をしてそれを避けようとする宗教儀式が生じた。運不運は日常行動の些細な過失や前世で犯した悪行のせいであるから、それを神に謝罪すれば万事は好転する……。そうした幼稚で原始的な心性から生まれた妄想が、やがて人類が「世界観」を欲するような段階になると、壮大な神話体系に変化していった。それはこの世の始まりや終わり、そして世界がこのようなものであることの説明をするものであり、一定の安心感やアイデンティティを与える役割を果たした。それは社会の秩序に安定をもたらしたり、他の民族・社会と抗争する際に士気を鼓舞したりといった効果もあった。だが、宇宙の真理を科学的に知り、様々な社会問題も技術的・合理的に処理できるようになった近代人は、もはや宗教など必要としない。宗教にいまだに価値があるとすれば、それは「心理的効用」か「社会的有益性」の問題であって、宗教は個人心理の不完全さや不安を癒やし、社会的アメニティ(モラル教育や集団に帰属する安心感の提供など)を補完するための「現状ではやむを得ない」充填物でしかない……。
果たして宗教はそのようなものなのか。確かに宗教の言説の大半は、妄想であろう。髭をたくわえたおじいちゃんが一週間でこの世界を創ったとか、死んだ女神の女陰から穀類が生じたとかいう、二千年も前の神話を、そのまま受け取れというのは無理な話である。
日本人から見れば驚くべきことだが、アメリカの一部ではダーウィンの進化論と旧約聖書の創造説とが対立しているという。良識的現代人は前者を、ファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)は後者を学校で教えるべきだというのである。この(スピリチュアリストから見れば)身の毛もよだつ二者択一は、とても「聡明な」現代人のわざとは思えない。ダーウィニズムが穴だらけの危うい仮説であることは事実だが、「それをあたかも真実であるかのように教えるな」という主張ならまだしも、その代わりに創世記を持ってこいというのは、「宗教はオプションである」という現代文明の一般常識からすれば、かなり暴挙であろう。
生命創造説をめぐるこの対立は、宗教と反宗教の「なぜか奇妙に聡明でない」対立の象徴であるように思える。宗教の側は二千年も前(鎌倉仏教なら八百年前だろうが)の言説に固執し、反宗教の側は最も身も蓋もない唯物論を選択せざるを得ない。これは宗教的主題に対して人類が「無意識に、わざと」頑迷な道を選んでいるのではないかとすら思わせる構図である。
どちらも真理ではない、とスピリチュアリズムは主張する。スピリチュアリズムは反唯物論である。だが、現在ある宗教を批判もしている。

◆スピリチュアリズムは宗教か

スピリチュアリズムは宗教ではないのか。この問いに関しては、「宗教」という言葉の定義自体ができていないので、答えは様々になるだろう。
前にも触れたように、宗教を「不可視の知性的実在や超越的な世界を模索するもの」とすれば、スピリチュアリズムはもちろん宗教である。しかし、その他の多くの点で、「それは宗教ではない」とも言える。それについて少し考察してみたい。
宗教の定義としてよく持ち出されるのが、「教祖・崇拝対象・教義・信者・組織・儀式」といった諸要件である。確かにうまく整理されている。神道などは「教祖・教義」がなく「信者」も曖昧だが、それは「自然宗教」の特徴だということで、逆に見方がクリアになる。だが、これを適用すると、スピリチュアリズムはまったく宗教ではない。
まず「教祖」はいない。「情報の発信元」としての「霊」はいるが、それは固定化されていないし、崇拝の対象ともなっていない。インペレーターやシルバー・バーチに畏敬や敬愛を抱くスピリチュアリストは多いだろうが、その像を作って礼拝するようなことはない。単独の霊や霊信を神格化・絶対化する立場はスピリチュアリズムとは乖離する。また霊の側も「自分たちは単なる使者」「自分たちの言葉を絶対化してはならない」「崇拝は神に対してだけなせ」と言っている。モーセやイエスやムハンマドを「神の言葉を託された者」とするイスラームの考え方に相通じるところがあるが、スピリチュアリズムの場合はそうした存在はあくまで「霊」であり、人間ではない。通訳である霊媒はあくまで通訳に過ぎない。人間を礼拝するのは愚行であるとスピリチュアリズム霊学は捉える。
「崇拝対象」は一応「神」であるが、その定義も描写もないし、崇拝の仕方もまったく定まっていない。前にも触れたように神は人間には理解不能なのであって、ぼんやりと崇敬することはできるかもしれないが、具体的な対し方が決められるものではない。祈る対象として「守護霊」が挙げられているが、「崇拝」という言葉はそぐわない。
「教義」というものもはなはだ曖昧である。スピリチュアリズムの最低要件として言われる二つの事柄、「①人間個性は死後も存続する、②死後世界と現実世界は交渉可能である」は最小・固定的な「教義」と言えるかもしれない。しかしこの二つでは、他の宗教までが含まれてしまう。それ以上の詳しいことは、漠然とした合意はあっても、明文化されるようなものではない。様々な霊信が告げる「情報」「メッセージ」のどれを受け取るかは自由である(ただしスピリティスムでは、カルデックの著書を基礎教典、聖典と見なす傾向があるようである)。
「信者」は漠然といるが、把握はできない。いくつかの国には「教会」や「協会」があり、そこに所属する信者もいるが、スピリチュアリズムの霊信は「組織」の必要性を説いていないので、そういった組織や信者はむしろ例外的な存在であると言える。スピリチュアリズムの霊信を好んで読み、それを何らかの形で糧にしている「潜在的信者」はかなり多くいるだろうが、スピリチュアリズムの本質から言えば、それだけでいいことになる。
「組織」については、スピリチュアリズムの本質的な考え方からすれば、積極的ではない。大英スピリチュアリスト協会などといった古い組織や、各国の「スピリチュアリスト・ユニオン」や「教会」、さらに霊媒や交霊会のグループなど、様々な任意団体があるが、それは情報提供機関とか親睦団体といったようなもので、どこかが権威を持っているわけではない。新興宗教のように会員数や支部数を増やそうといった強烈な志向もない。一部の組織では霊媒養成や青少年教育などを行なっているが、細ぼそとしたものであるように見える。スピリチュアリズム自体、霊的認識の獲得や霊的成長のための実践といった個人的な活動に主眼を置き、教条主義・形式主義・権威主義を否定しているので、組織形成は重視されない傾向がある。
「儀式」についても否定的である。多くの霊信が推奨するのは「祈り」であるが、形式や言葉はまったく問題にされない。「集団での祈り」に意義を認めるメッセージもあるが、義務ではない。宗教に付きものの諸儀式は無意味だとしている。壮麗な施設や荘厳な儀礼などは全否定。儀式や宗教建築を好む人は多いのでこの点スピリチュアリズムは人気がない。
どうもすっきりしない叙述になったが、要するにスピリチュアリズムは、ほぼ「教義」(それもいまだ整理・体系化されてはいない)だけのものであり、その他の要素に関しては否定的である。その意味では「宗教」とは言えないし、「宗教」たろうともしていない。そこにはスピリチュアリズムがこれまでの諸宗教に対して持っている独特なスタンス、全否定ではないがかなり強烈なアンチテーゼが影響しているように思われる。