34-理性に訴える

スピリチュアリズムが自らをこれまでの宗教と異なると主張しているところは、二つある。一つは「理性重視」、もう一つは「押し付けない」、である。
もちろん「理性」という概念にはいろいろとブレがあるから、すんなりと同意してはもらえないだろう。唯物論者は、そもそも「不可視の知性的存在」を想定すること自体、理性の欠落だと言うだろう。既成宗教の側も、自分たちも理性を決して軽視していないと主張するだろう。スピリチュアリズムだけが「理性」を標榜するのは欺瞞だと。
これに対しては、おそらく議論はかみ合わないだろうが、二つのことを主張したい。まずは、スピリチュアリズムはこれまで可能な限り「証拠」を提出してきたということ。もう一つは、「説明努力」をしてきたということ。
「証拠」については、歴史を概観した第一章ですでに述べてきた。それは明白な証明でも完全な証拠でもないが、頭の中にある唯物論の強固な締め付けをはずしてみれば、かなり説得力のあるものと言えるのではなかろうか。「交差通信」はもとより、時期や場所を異にする複数の「霊信」が共通のことを伝えていることも、「証拠」の一部と言えるだろう。スピリチュアリズムのものではないが、死後存続の最も強力な物理的証拠であるイアン・スティーヴンソンの研究に対して、カール・セーガンやハンス・アイゼンクといった科学者が「未知の、真剣に探究する価値がある何かがある」といった感想を述べたのは、いたって公正な態度のように思われる。
一般の宗教にとっては、証拠の提出など思いも寄らないものであろう。イエスは難病を癒やし、水の上を歩き、復活を予言しそれを成就したから、その言説は正しいとキリスト教は主張するだろうが、病気治療や水上歩行や霊姿といった超常現象があったからといって、「それを起こした人物の発言が真理である」ことにはならない(ついでに言っておけば、イエスの復活予言と弟子たちの証言による復活現象とはまったく食い違っている)。イエスが「唯一の神の子」であると述べたのはイエスの死後数十年後に成立したヨハネ福音書であるが、その言説が正しいという客観的根拠はどこにもない。イエスの刑死が人類の贖罪のためだったというのはパウロ神学以降の主題だが、その「証拠」もどこにもない。ましてやその後のキリスト教神学は、思弁の上に思弁を重ねたものであり、証明や証拠とは無縁である。ムハンマドは奇蹟を一つも起こしていない(コーラン自体が奇蹟だとムスリムは主張するが物理的心霊現象は記録にない)し、コーランの内容が何かの「証拠」の上に成立しているわけではない。ブッダは自らの神秘体験(おそらく脱魂体験)に基づいて教えを述べただけだし、その後の仏教は誰がいつ作ったのかもわからない経典に根拠を求めている。現代の霊能者の多くも、自らの言説の根拠・証拠を示そうともせず、ただ煽ったり脅したりする。こうやって考えていくと、逆に、人々がどうして宗教を信じるようになったのか、不思議ですらある。特に近代人は、事実や実証をもって真か偽かを判断するように教育されているので、そうした基盤を持たない宗教に疑いを抱くのは自然である。無神論者が宗教信者を「根拠もないものを信じる没理性の輩」とみなすのも、致し方ないところがある。
シルバー・バーチは言う。
《地上のいわゆる宗教は真実を基盤とすべきであり、理性の猛攻撃に抗しきれないようなものはすべて廃棄すべきです。》[バーチ④、一一一頁]
《私たちがお届けした“新しいもの”が一つあります。それは人類史上はじめて宗教というものを証明可能な基盤の上に置いたことです。つまり信仰と希望とスペキュレーションの領域から引き出して“ごらんなさい。このようにちゃんと証拠がありますよ”と言えるようになったことです。》[バーチ⑦、一八四頁]
もう一つの「説明努力」に関して言えば、スピリチュアリズムの霊たちの誠実・懇切さは、相当のものである。大方の教祖のように、神秘的なことをただ宣言するだけでおしまいではない。カルデックの書は問答形式で構成されているし、インペレーターは霊媒と激烈な議論をしている。シルバー・バーチにいたっては、やってくる人のしばしば頓珍漢な質問に対しても、苛立ちすら示さず丁寧に受け答えをしている。そもそも超越的な事象を人間の知性に理解させることは容易ではないので、時に「それは人間の言葉では説明できない」と答えることもあるが、可能な限りの努力をしていることははっきりと伝わってくる。「不合理であるからこそ、信じなければいけない」などという詭弁はそこにはない。
インペレーターの主張を引く。
《われらの一貫せる態度は、かの伝説的教説――単に古き時代のものという意味での伝説的教説――を金科玉条とする盲目的信仰に代わりてそなたの理性に訴えるということである。軽信に代わって合理的知性的検討を勧め、確信に基づける容認を要求する。……理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶するがよい。十二分に得心するまでは決して同意することも行為に出ることも求めぬ。》[霊訓、一二〇頁]
《人間は己に宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は無知なる者や偏見に固められた人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。》[同、二六頁]
シルバー・バーチも同様に言う。
《もともと神は人間に理性的判断を賦与しております。それは日常生活において行使すべく意図された神からの授かりものです。理性を抑圧して理不尽なものを信じさせようとする者は光明へ逆らって生きていることになります。理性に従う人間はその過程がいかに苦痛でいかに困難であろうと、そして又その結果、神聖にして侵すべからざるものと教え込まれた聖典に記されているものを放棄せざるを得なくなったとしても、少なくとも自分には正直であると言えます。》[バーチ②、一八一頁]

もちろん、スピリチュアリズムの説明がすべてを合理的に説明できているわけではない。再生問題にしても、物質世界でのこのような生存の意味も、霊にいくら説明されてもわからないところは厖大にある。ただ、ひとつ言っておきたいことは、スピリチュアリズムの霊学的説明は、唯物論の説明に比べて、実証性ははるかに劣るとしても、「広汎」だということである。唯物論では説明できないあまたの現象を、霊学的に説明することは可能だと思われるのである。限定された範囲でのかなり首尾一貫した説明と、より広汎であるが不完全な説明と、どちらが意味があるかという問題は、一考の余地があるように思われる。

スピリチュアリズムは、個々人が理性的に判断することを求めるので、「押し付け」を否定する。もちろん、スピリチュアリズムの歴史には、出版や講演といった「宣教」はあった。だが、それは伝えたいと思った人間が伝えればよい、受け取る側は受け入れるも入れないも自由、という性質のものである。強制や脅しは厳禁とされる。このあたりは、西洋文明の基盤となった一神教、特にその悪しき伝統である自己絶対化と他宗教の否定(キリスト教やイスラームの「拡張主義」)への強い批判が感じられるところでもある。それは文化的洗練とも捉えられる(東洋の方がその意味では進んでいるかもしれない)が、個の多様性の認識という思想的進化とも考えられる。
インペレーターは言う。
《神は決して真理の押し売りはせぬ。……神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意のある者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者は拒絶する。それでよいのである。》[霊訓、二六頁]
シルバー・バーチもまた同様に言う。
《私たちは決してあなた方に「理知的に難しく考えず、ただ信じなさい」とは申しません。逆に「神から授かった理性を存分に駆使して私たちを試しなさい。徹底的に吟味しなさい。その結果もし私たちが述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒否してください」と申し上げております。》[バーチ④、一〇二頁]

押し付けをしないのは、より本質的な理由もある。それは、人間の魂は成長レベルも系統(傾向)も様々であって、その魂に応じたものを得ることがふさわしいと考えているからである。「レベル」という言葉はいろいろと問題があって、確かにある種の「高度な知」はそれにふさわしいものにしか受け入れられないということは真理であるにしても、「~がわからないのはレベルが低い人間だ」というような発想は、人間としてはやってはならないものであろう。その問題を不問にして言えば、人間の霊的成長の道は様々であるから、必ずしもスピリチュアリズム(霊の認識)を通る必要はない。別のルートで真理への接近や霊的成長を獲得する場合もあるであろう。宗教に無関心であろうと、人間は霊であるという認識を持たずとも、多大な霊的成長や人類への貢献をなす魂は多い。それはそれでまったく問題ない。一神教のように、「真理(神)への道はわれわれの教えしかない」とするのは、傲慢である。

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