36-キリスト教批判

初期のスピリチュアリズムでは、キリスト教への批判はそれほどあからさまなものではなかったようで、米国でも英国でも「親キリスト教スピリチュアリズム」勢力が生まれたくらいである。
だが、スピリチュアリズムのキリスト教批判は、次第に明確・強烈になっていき、それは一八八三年のインペレーターの霊信において頂点に達する。この霊信は、イギリス国教会牧師であったステイントン・モーゼズとインペレーターを始めとする霊との間の激越な論戦であり、スピリチュアリズム側からのキリスト教への根底的批判が展開されている。そのいくつかを見ていく。
それはまず旧約聖書(ユダヤ教)以来の神観念に対する批判から始まる。
《そなたらは己の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、己に媚び己への信仰を告白せる者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。
何たる見下げ果てたる神! 一時の出来心から罪を犯せる無知なるわが子に無慈悲なる刑を科して喜ぶとは! 作り話にしてもあまりにお粗末。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物に過ぎぬ。そのような神は存在せぬ! 絶対に存在せぬ!》[霊訓、三六頁]
さらに「一神教」について。
《またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。》[同、八一頁]
そしてキリスト教の「贖罪」の教えは宗教の破壊であると述べる。
《かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される――生涯に亙る悪徳と怠惰の数々もきれいに拭い去られる――わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。》

ほかにも言及は枚挙にいとまないが、キリスト教の説く三位一体、最後の審判、終末とキリストの再臨、原罪、天国・地獄といった概念が、スピリチュアリズムからすればすべて否定されるべきものである。
シルバー・バーチはあっさりと切り捨てる。
《私はキリスト教の神学は人類にとって大きな呪いであったと思っています。しかし、その呪われた時代も事実上終わりました。》[バーチ⑤、一五五~六頁]

キリスト教教学へのこうしたかなり激しい批判と対極的に、スピリチュアリズムの霊信の多くは、イエスの生き方に大きな賛辞を寄せる。
一般の人にはあまり知られていないかもしれないが、イエスが実際どういう「人物」で、何を言い、何を行なったのかという研究は、近代に入ってかなり盛んになっている。そこでは、これまでのキリスト教が説いてきたものとはかなり異なるイエス像が提出されてきている。これに関しては厖大な議論があるので深入りしないが、少なくとも、イエスは自らのことを「神の一人子」や「メシア(=キリスト)」と称したことはないし、「三位一体」や「処女懐胎」はもちろん、「洗礼」「肉体の復活」「原罪」「イエスをキリストと認めることによる罪の赦免」といったことを主張したこともない。「教会を作れ」「全世界に福音を宣べ伝えよ」とも言っていない。もっとありていに言えば、キリスト教はイエスの説いた教えではない。またイエスは仙人的聖人ではなく、人間くささもあって、「大酒飲みで大食漢」とも言われたし、女性に対して禁欲的でもなかったし、ユーモアを見せたり、愚痴をこぼしたり、さらには怒りを表明したこともあった。(詳しくは本ブログの「霊学的イエス論」を参照していただきたい。)
スピリチュアリズムはこうした人間イエスを賞揚する。イエスは確かに「霊格の高い人間」であった。身分に関係なく(というよりむしろ弱者に積極的に)「霊的治療」の奉仕をしたし、現世の軛を解き放つ話で人々に安らぎと希望を与えた。また「神の国」つまり霊的価値の実現については、人々に苛烈なまでの要求をした。「全財産を貧者に寄付しろ」「善行は報いを決して求めるな、人に見られてもいけない」「七の七十倍まで許せ」「目がつまずかせるのなら目をえぐり出せ」「汝の敵を愛せ」。そして霊的価値のために自らの生命をも差し出した……。しかし、それでもイエスが人間であることは変わらない。イエスを「神の子」とする教義は、彼の生を「神の子」ゆえのもの、「神の子」のみがなしうるものとしてしまい、人間の一つの手本と見なすことを妨げているとして、厳しく糾弾する。マイヤーズ通信は言う。
《ナザレのイエスはその信徒たろうとする人たちに人生に恐怖を持たずに立ち向かうようにという。彼らがその本性全体、つまり先に述べた六つの自我の様態〔愛する者、孤高の者、快楽主義者、禁欲主義者、聖者、賢者〕を表現すべきだと要求する。賢明にも彼は普通の人には実行不可能なほど高い行動基準を求めるのである。というのも、高き理念こそ超人間的努力を喚起しうるからである。イエスの戒めを文字通り実行できる人はいないであろう。しかし彼の信徒たる人は、他のどんな師に従うよりも立派な生涯を送ることができよう。》[人間個性を超えて、二二九頁]
模範は見習い近づこうと努力するものであって、畏れ崇拝するものではない。模範を祭り上げ、崇拝し頼むことで自らの課題を免除してもらうことは誤りである。それがスピリチュアリズムの言いたいことであろう。
「しかし、スピリチュアリズムも愛と奉仕を説いている。それはキリスト教と同じではないか。スピリチュアリズムはキリスト教を盗んだ上にけなしているのではないか」という意見もある。だが、同じ目標を説いたから同一ということにもならないし、剽窃ということにもならない。愛や奉仕はスピリチュアリズムの一部であり、キリスト教においても一部である(ついでに言えば、千年間の歩みで、本当にキリスト教は「愛の宗教」であったかどうかはいささか疑問が生じる)。

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