40-スピリチュアリズムとニューエイジ

二十世紀終盤、アメリカを中心に、「ニューエイジ」と呼ばれるトレンドが起こったことは、多くの人が知っていることであろう。
しかし「ニューエイジ」とは何かということは、きわめて難しい。健康法・代替医療、心理療法、潜在能力開発法、東洋的瞑想法、秘教など、実に種々雑多なものからなり、それらに共通な要素というものは、「カウンター・カルチャー」ないし「サブ・カルチャー」――つまり正統的な知に異議を唱える知であるということ――以外には見つけにくいからである。おまけにここで言う「正統的な知」というのは、「西洋における」という但し書きが入るのであって、たとえばそのリストに挙げられている「上座部仏教の瞑想法」や「鍼灸・気功」などは、東洋では別に「ニュー」でもなければ「カウンター」でも「サブ」でもない。
ここではニューエイジの様々な流派を網羅したり、それぞれに論じたりすることはとてもできないので、ある「アンチョコ」を用いて、そこに見られる大まかな傾向についてまとめ、「オールド・エイジ」であるスピリチュアリズムとの違いを見ていくことにする。「アンチョコ」とは、正統中の正統、カトリックの教皇庁がニューエイジについて批判的にまとめた本『ニューエイジについてのキリスト教的考察』[教皇庁文化評議会他、二〇〇七年]である。同書は「キリスト教会の司牧者のための手引きとして書かれたもの」であり、カトリックにとってニューエイジは「敵」「異端」であることをあけすけに宣言しているが、さすがに教皇庁というべきか、周到な調査と抑制の利いた表現で、ニューエイジ諸派のポイントを浮かび上がらせており、ヒステリックに批判しているわけではない【39】。

同書によると、ニューエイジという名称は、「フランス革命とアメリカ独立革命の時代に、薔薇十字団とフリーメーソンによって用いられるようになったよう」[一六頁]であるが、「占星術でいう水瓶座(アクエリアス)の時代が間近に迫っていることからとられて」[一二頁]いる【40】。
また、ニューエイジへと流れ込んだ伝統として次のようなものを挙げる。
《古代エジプトのオカルト儀礼、カバラ思想、初期キリスト教時代のグノーシス主義、スーフィズム、ドルイドの伝承、ケルト・キリスト教、中世錬金術、ルネサンスのヘルメス主義、禅仏教、ヨーガなど〔後略〕》[二八頁]
要するに、正統キリスト教以外のものというわけだが、同じ一神教のユダヤ教・イスラームではなく、その神秘主義部分であるカバラ、スーフィーを挙げていることは面白い。またスピリチュアリズムやサイキカル・リサーチ、超心理学についてはまったく無視となっている。
そしてこう宣言する。
《ニューエイジは「エソテリックな要素と世俗的な要素の混合」です。》[二八頁]
エソテリックとは、「密教的」という言葉だが、「不可視の(ないしは霊的)力ないしシステム」を主題にするということなのだろう。そして、「世俗的な要素」とは、「自己実現」や「潜在能力開発」や「幸福・成功の獲得」といった現世利益志向を指すものと思われる。
そして、ニューエイジは、「さまざまな活動、思想、またニューエイジということばに引かれる人々のゆるやかな集合体」であるが、「その中身はきわめて多様であるにもかかわらず、以下のような共通点がある」と言う[四六~七頁]。
①宇宙は有機的な全体として考えられる。
②宇宙はエネルギーによって動いている。このエネルギーは、神的魂または霊ともいわれる。
③さまざまな霊的存在の介在への信仰。
④人間は目に見えない高次元のところに上昇し、また、死を超えて自分の人生を統御することができる。
⑤歴史以前の、あらゆる宗教や文化を超えた「永遠の知識」があると考える。
⑥覚醒した師に従う。

微妙な表現だが、これをスピリチュアリズムと比較してみるとどういうことになるか。
①は、「有機的」という語の意味が問題だろう。ニューエイジ思想では物質世界と超越世界も含めた「全宇宙」の全存在が密接に関係しているということを言うようだが、それはいささか素朴な物霊一元論になる傾向がある。スピリチュアリズムは、物質と霊の二元論(暫定)を強調するため、立場は少し異なるように思われる。
②の「エネルギー」観は、確かにニューエイジの特色であろう。スピリチュアリストは「霊」という個別的知性体を重視するが、ニューエイジャーはそれをエネルギー論的に解釈する。エネルギーというのは曖昧で、機械的なものなのか、人格性を含んだものなのかはっきりしないし、種類や作用が多種あるのかどうかも不明である。エネルギー還元論は、霊的存在を認めることの回避として持ち出されているのではなかろうか。さらにエネルギー還元論は、「情報」「知性」といったものを切り捨てることになりかねないように思われる。
③はむしろスピリチュアリズムの中核理念で、これをニューエイジの「共通項」とするのは少し無理があるように思われる。ニューエイジ思想の多くは「エネルギー」や「宇宙意識」といった概念によって霊的存在の問題を消去しようとしているのではないだろうか。
④は前節で触れた「高次体験型宗教」の本質である。ニューエイジの最大の特徴はこのあたりにあるように思われる。これはスピリチュアリズムの指向とは異なる。
⑤は、「歴史以前の」という条件説が問題である。「超古代文明」といったものへの関心を指しているのかもしれない。スピリチュアリズムは「永遠の知識」は否定しないが、人間がそれを把握し得るとは思っていないし、「歴史以前」にそれが地球上に存在していたかどうかは問題にしていない。
⑥は、東洋宗教系のニューエイジに特有なものであろう。仏教やヨーガなどでは「師への絶対的帰依」が強調されるが、スピリチュアリズムにはそういった要素はない。

結局のところ、ニューエイジとスピリチュアリズムとは、一部しか重ならないということになるわけだが、その中に含められているある種の派には、スピリチュアリズムと近接する主題を扱うものがある。
その一つは「トランスパーソナル心理学」である。これも「アンチョコ」によって概観してみよう。
《トランスパーソナル心理学の中心概念は、宇宙的意識、高次の自己(ハイヤー・セルフ)、集合的・個人的無意識、個人の自我です。高次の自己は、人間の真のアイデンティティであり、神的意識としての神と人間をつなぐ架け橋です。霊的発展とは、この高次の自己と接触することです。高次の自己は、主体と客体、生と死、心と身体、自己と自己の断片的な側面といったあらゆる種類の分裂を乗り越えることを可能にします。限界のある人間の人格は、真の自己が作った影または夢のようなものです。高次の自己は生まれ変わる以前の前世の記憶を含んでいます。》[五一頁]
トランスパーソナル心理学は、ユングの影響を受けている。ユングはスピリチュアリズムに接しつつ、それを心理学的概念に変換し、霊的存在を捨象しようとしたところがあり、トランスパーソナル心理学もそれを受け継いでいる。そこで重要視される「ハイアー・セルフ」は、スピリチュアリズムが言う「個々人のスピリット」とほぼ同義である。上記の叙述の「高次の自己」を「スピリット」と差し替えると、かなりスピリチュアリズムの言説に似てくることは否めない。
しかし、大きな問題がある。それは、「ハイアー・セルフ」や「宇宙意識」の実在性を認めるのかどうか、というものと、「トランスパーソナル体験」の過大評価である。
前者については、やはり「霊的存在を認めることへの回避傾向」が働いているように思われる。ユングが実在かどうか不明の「集合的無意識」や「自己」を持ち出したように、「高次自己」が、では死後も存続する実在なのかという議論は回避されている。トランスパーソナリストは、どうも人間は死後「宇宙意識」と合一するというような想定をしているようだが、どんな極悪人でもそうなのか、合一した後の自己はどういうような営みをなすのか、といった具体的な問題については語られていないようである。(トランスパーソナル心理学の開祖ケン・ウィルバーがこのあたりのこと――特に生まれ変わりの有無――に関して「ペテン」を働いたと自白していることに関しては、TSLホームページ「ラウンジ」参照。)
後者については、前掲書からの鋭い指摘がある。
《東洋宗教とユングから強い影響を受けたトランスパーソナル心理学は、科学と神秘主義が出会う観想的な道程を提示しています。身体性の強調、意識の拡張方法の探求、集合的無意識の神話の展開といったことはすべて、自己の「内なる神」の探求を促すことを目指しています。自分の潜在能力を実現するために、人は自分の「自我(エゴ)」を乗り越えなければなりません。それは、深いところで神(すなわち自己であるところの神)となるためです。こうしたことを行うことができるために、適当なセラピーを選ばなければなりません。すなわち、瞑想、超心理学的経験、幻覚誘発剤の使用などです。これらは皆、「至高体験」、すなわち神、また宇宙と融合する「神秘的」体験に達するための方法です。》[四五頁]
「自分の潜在能力を実現するために」、「『神秘的』体験に達するための方法」を駆使するというのである。トランスパーソナリストはこの捉え方は一面的だと反論するかもしれないが、「自らをより能力のあるものにしようとする傾向」と、「そのためのテクニックやメソッド」というポイントは、トランスパーソナル心理学のみならず、ニューエイジ全般に共通する傾向のように思える。
《ある種の形態のニューエイジは、自然の諸力を利用して異界と交信しようとします。それは、人の運命を見いだしたり、人が自分自身と自分の周りにあるものの力を引き出すために、自分を正しい波長と合わせるのを助けるためです。》[一五頁]
《愛はエネルギーであり、高波長の波動です。幸福と成功を得るための秘訣は、波長を合わせること、存在の偉大な連鎖の中に自分の場を見いだすことです。》[三四頁]
《ニューエイジは基本的に、多岐にわたる技術やセラピーを用いることによって、人間が完全なものとなりうると考えます(これは、キリスト教における神の恵みとの協力という考えと対照的です)。……完成とは、わたしたちが自分自身で造り出すことができ、自分の力で獲得することができる価値の序列に従って、自己実現を行うことを意味します。そこで、自己は自己創造者だということができます。こうした見方に基づくと、現在の人間と自らの潜在能力を完全に実現した将来の人間の間の違いは、人類と類人猿の違いよりも大きいといえます。……オカルト主義の中心には、神的なものになることへの夢想に基づく力への意志があります。》[四七頁]
つまり、ニューエイジは、物質的法則を超えた何らかの世界(どちらかというとエネルギー的・非人格的なシステム)を想定し、それを何らかの技術によって操作し、現実を改善したり、自己を強化したりすることにあり、さらに言えばそれは現世的な利益の追求にもつながっていく。大きく見ればニューエイジもまた「高次体験指向型宗教」の範疇に属するようである。
これに対して、スピリチュアリズムは、不可視の世界はあるが、単にエネルギー的なもの、非人格的なものではないとし、目的は自己及び他者の今生を超えた霊的成長であり、外的なものを操作する技術によって現実を改善し、幸福や成功といった現世的利益を獲得することではない。
もっと単純化して言えば、ニューエイジ諸派の目的は「不可視の要素」を利用した「自己の力の拡大」であり、しばしば「現世利益」である。これはスピリチュアリズムが持っている色合いとまったく異なる。スピリチュアリズムは「自己の霊的成長」を望むが、それは「謙譲と奉仕」や、「苦難の中に身を置くこと」によってなされるものである(この点においてはキリスト教の姿勢に近いことは否定できない)。
ただし、いわゆる「俗流スピリチュアリズム」には、霊媒の霊能を利用して(あるいは自らの霊的感受力を開発して)未来を予測したり、「運命の恋愛相手」を探そうとしたり、富や名声の獲得方法を見出したりする傾向も、ないわけではない。それは「現世利益」であり「自己の力の拡大」であり、ニューエイジと重なるところがあるだろう。
名前がどうであるかに関わらず、人間の指向にはやはり「二つの道」があるのかもしれない。自己の力を高めて高みへと向かおうとする道と、自らを低め、高みからの支援と他者への献身を通して魂を成長させようとする道と。スピリチュアリズムの本質は、後者の方にある。

【39】――ニューエイジに含まれるものとして、この本では次のようなものを挙げている。
《たとえば、鍼、バイオフィードバック、カイロプラクティック、キネシオロジー(運動療法)、ホメオパシー、イリドロジー(虹彩学)、マッサージ、また、各種の「ボディーワーク」(オルゴノミー、フェルデンクライス、リフレクソロジー、ロルフィング、ポラリティ・マッサージ、セラピューティック・タッチなど)、瞑想、ヴィジュアリゼーション、栄養療法、サイキック・ヒーリング、各種のハーブ医療、クリスタル・メタル・音楽・カラーなどによるヒーリング、前世療法、そして最後に十二ステップ・プログラムとさまざまな自助グループ》[三六頁]
さらに、訳者による付加的リストとして、次のものが捕捉されている。
《ヒューマン・ポテンシャル運動(自己啓発セミナー)、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンス、ネオ・ペイガニズム、フェミニスト霊性運動、ディープ・エコロジー、ホリスティック医療運動、マクロビオティック、超越瞑想(TM)、神智学、人智学、クリシュナムルティ思想、ラジニーシ運動、グルジェフ思想、仏教的瞑想・共同体(ヴィパッサナー瞑想、リトリート)、レイキ、気功・合気道、UFOカルト》
ここにはスピリチュアリズムは挙げられていない。また、スピリチュアリズムの強い影響を窺わせる「チャネリング」も入っていない。生々しい霊との交流というものは、ニューエイジではないようである。
そして、「二、三世紀のグノーシス主義と同じように、ニューエイジは教会が異端とみなした諸見解をある意味で要約したものだということ」[一九頁]であり、「全体として、ニューエイジをキリスト教の教理と霊性とに調和させることは困難で」[二三頁]あるとはっきりと宣言している。
【40】――正統キリスト教の中にも、十三世紀に「新たな時代の始まり」を宣言した運動があった。フィオーレのヨアキムとそれに続くフランシスコ会の「聖霊主義」運動――彼らは spirituales つまりスピリチュアリストと名乗った――である。ヨアキムはキリスト教世界の歴史は「三段階」からなり、アダムからイエス・キリストの出現までを「父」(神)の時代、その後を「子」(キリスト)の時代、そして来たるべき次の時代――それは一二六〇年から始まるとした――は「聖霊」の時代となると予言した。父の時代は神とその律法の支配する時代、子の時代はキリストとその後継である教会が支配する時代、そして、聖霊の時代は律法や教会を通してでなく、聖霊が個々人を教え導く時代だ、というのである。そして、教会の堕落を厳しく批判していたフランシスコ会の一部の修道僧たちが、これに乗っかった。しかしこの動きは異端とされた。本ブログ所載「中世の“スピリチュアリスト”たち」http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/445e36716a100ea7487a7f6dee6a3939参照。