03-イギリスのスピリチュアリズム

スピリチュアリズムの大流行はすぐにイギリスへと伝わった。一八五二年十月に霊媒ヘイデン夫人が渡英・活動すると、新聞は大々的に報じ賛否両論が巻き起こった。様々な人が彼女のもとを訪れ真偽のほどを確かめようとしたが、その中から彼女の起こす心霊現象を真正なものと認め、霊の実在を受け入れた最初の学識者が出た。一人は数理論理学のオーガスタス・ド・モーガン(一八〇六―七一)であり、もう一人は協同組合運動の先駆者で、三大空想的社会主義者の一人とされる、ロバート・オーウェン(一七七一―一八五八)である。特にオーウェンの「入信」は彼の思想を信奉する労働者階級に大きな影響力を持った。
イギリス、そしてヨーロッパ諸国へのスピリチュアリズム伝播に、最も大きな影響力を発揮した存在は、「不世出の物理霊媒」ダニエル・ダングラス・ヒューム(Daniel Dunglas Home 一八三三―八六)である【4】。
スコットランドに生まれ、アメリカで病弱な幼年期を過ごした彼は、十三歳の時に死亡した友人の霊姿を見、十七歳で母の死をやはり霊姿で知るなど、早くから霊能を発揮していた。ハイズヴィル事件の二年後(アメリカ在住時)、ポルターガイスト現象を起こし、複数の学者の調査によって現象の真実性が証明され、有名になる。エドマンズ判事や化学者ヘアらも、彼の現象に大きな影響を受けた。
一八五五年に英国に戻った彼は、貴族階級を中心とした様々な人物のもとで交霊会を行ない、物体浮揚、物質化現象(霊の手や体などが出現する現象)や直接書記(紙や石板に文字が出現する現象)を始めとする多様な現象を起こして見せた。多くの「真実と認める証言」が発表される一方、中傷・誹謗の嵐も起こったが、彼はくじけることなく活動を続け、さらにヨーロッパ各地を旅し、王侯貴族の間にスピリチュアリズムを広めていく。フランスではナポレオン三世がテュイルリー宮殿で交霊会を開き、テーブルの上に手が突然現われ、ナポレオン一世のサインをしたのを目撃した。バイエルン国王マクシミリアン二世もフォンテーヌブローで行なわれた交霊会に参加した。イタリアでは旧ナポリ王、オランダではソフィア女王、ロシアでは皇帝アレクサンドル二世が、彼を招待し、その現象を目撃した。社交界の花形となった彼は一八五八年にはロシア貴族の娘と結婚、式にはトルストイ、アレクサンドル・デュマらも出席した。霊媒(霊能者)がこのような扱いを受けることは、現代では考えられない[Fodor, 1933, pp.171-175]。
ヒュームの偉大さは、第一には彼を媒介にして「霊」が引き起こす現象の多彩さであった。「物体浮揚」や「物質化現象」、音・芳香・光などの発生、さらにはアコーディオンがひとりでに音楽を奏でたり、焼けた石炭を素手で持ったり、自らの体を全体的に数十センチ引き延ばしてみせたり、天井近くまで浮き上がる、といったことである。
「〔ヒュームは〕ゆっくりと威厳を保って立ち上がると、明るく燃える暖炉に近寄り、素手を突き入れて、あかあかと燃える石炭を両手一杯とりだし、あたかも聖火を捧げるかのように〔交霊会主催者の〕ホール氏の白髪の上にのせ、その上から、指で髪をなでつけた。ホール氏は、辛抱強くというよりも、敬虔な面持ちで成り行きを受け入れていたようだ。」[オッペンハイム、一九九二年、五八頁]
一八六八年十二月には、ロンドンで「アシュレー邸空中浮揚事件」が起こった。ヒュームはトランス状態に入ると、三階の部屋のヴィクトリア通りに面した窓から漂い出て、通りの上を浮遊し、隣接する部屋の窓から戻り、元の場所に降り立った。この事件は、目撃者がヒュームと親しかったアデア卿ら三人だけであったことや、細部の証言に曖昧なところがあることから、今日まで論争の的になっているが、少なくとも当時はヒュームの名声をさらに高めるものとなった。
ヒュームの偉大さの第二は、場所や同席者を選ばず、白昼の光の中でも現象を起こせたということである。通常、霊媒は、自分の家やいつも交霊会を行なっている知人の家などで、気心の知れた人々を相手に、できるだけ暗い状態で実演することを好む。これは、集中力を高めたり、雑念に乱されないという意味で、充分首肯できるものだが、逆に「トリック」の疑いを呼び起こすものでもある。この点ヒュームは稀有なことに、そういう要求をほとんどしなかった。皇帝の宮殿であろうと、見ず知らずの野次馬や強烈な猜疑心の持ち主がいようと、明るい光の中で、様々な現象を起こすことができたのである。
そしてヒュームの最後の偉大さは、「トリック」を暴かれたことが一度もなかったということである。一八七一~七三年に、名声ある科学者サー・ウィリアム・クルックスがヒュームの現象を調査し、「トリックの疑いは全く認められない」との結論を発表しているし、後にできた「サイキカル・リサーチ協会(SPR、心霊研究協会)」で最も懐疑的な人物とされたフランク・ポドモアすら、同様の意見を表明している。もちろん一般の懐疑論者は、ヒュームの現象をめぐる報告に様々な反駁の種を見つけ出し続けていたが、実際にトリックを行なっている現場を押さえられたことは一度もなかった。
さらに付け加えておけば、彼は交霊会の金銭的報酬を一切受け取らない清廉な人物であった。誹謗・中傷はもとより暗殺の危険に遭遇するなど、艱難は多かったが、それにもかかわらず、精力的にスピリチュアリズムを広め続けた。
ただし、現象の多彩さ、壮大さに比べて、霊的講話の方はあまりめざましくなかったようで、「太陽の温度は低く、植物で覆われている」という発言には親友のアデア卿も戸惑ったという。ヒュームの交霊会によって確信を得、後に英国スピリチュアリズムの中心人物となったステイントン・モーゼズは、「彼は善良で誠実な人物だが、知性的ではなく、論議もへただった」と述べている[Fodor, 1933, p.174]。

イギリスにおけるスピリチュアリズムの熱狂的隆盛は、ハイズヴィル事件後のアメリカのそれに勝るとも劣らなかったようである。「ロンドンでは毎晩、何千というテーブルが宙に浮いている」と言われるほどであったし、ヒュームの完璧さには及ばないにせよ様々な霊現象を起こす霊媒(特に女性霊媒)が続々と生まれた。
知識人の「転向」も相次いだ。進化論をダーウィンとほぼ同時に提唱したアルフレッド・ラッセル・ウォーレス、タリウムを発見した科学者サー・ウィリアム・クルックスなどである。
ウォーレスはダーウィンとは別個に進化論と自然選択説を構想したが、年長のダーウィンに栄誉を譲った博物学者である。彼が重鎮ダーウィンに論文「変種がもとのタイプから無限に遠ざかる傾向について」を送ったのは一八五八年、同じことを思いつきながら公表せずにいたダーウィンがあわてて『種の起源』を刊行したのはその翌年である。ところがウォーレスは、一八六五年になるとスピリチュアリズムに関心を持ち、霊媒のもとへ通うようになった。そして、妹の同居人であるアグネス・ニコル嬢(のちのガッピー夫人、?―一九一七)が、強力な霊能を持っていることを発見した。出席者と手をつないだまま腰かけた椅子ごとテーブルの上まで浮かび上がったり、楽器がひとりでに音楽を奏でたりし、さらには「アポーツ」と呼ばれる、物体がどこかから突然現われる現象(物理的心霊現象の中でもきわめて起こりにくいとされている)が起こった。
この霊媒のアポーツ能力はとてつもないものだったようで、ウォーレスの友人がひまわりを求めた時には、高さ約一八〇センチの、根に土のついたものがどっかりとテーブルの上に落ちた。後の話だが、ナポリのマルゲリーテ王女がとげのあるサボテンを求めた際には、二十個以上が出現して後片付けに苦労したというし、アルピーノ公爵夫人が海の砂を望んだ時には、海水やヒトデごと一緒にテーブルにぶちまけられたという[Fodor, 1933, p,155]。
こうした体験によって、ウォーレスはスピリチュアリズムを受け入れ、一八七四年には『奇跡と近代スピリチュアリズムについて』[ウォレス、一九八五年]を刊行し、完全にスピリチュアリズム擁護の立場に回った。といってもウォーレスは進化論や自然選択説を完全に否定したわけではなく、物質的進化と霊的進化との二つの原理があると主張するようになったのである。
もう一人の科学者、サー・ウィリアム・クルックス(一八三一―一九一九)は、一八六一年に元素タリウムを発見し、王立学士院フェローに選ばれ、ラジオメーター(放射計)や「クルックス管」を発明、のちの電子やX線の発見への突破口を開き、後にはフランス科学アカデミー特別賞、ナイト爵位、メリット爵位などを得た栄誉に恵まれた人である。
クルックスは一八七〇年、「科学者として」批判的な立場からスピリチュアリズムの流行の中で起こっている現象を研究することを宣言、七一年にD・D・ヒュームがロシアから戻ると、七三年までの間、一連の交霊会を共にし、そこで起こる様々な現象を検証した。クルックスの結論は大方の予想に反して、「トリックではない」というものだった。その後彼はケイト・フォックスやステイントン・モーゼズなど何人もの霊媒の現象も調査している。
クルックスの「参入宣言」は、後輩科学者たちの研究を促す大きなインパクトとなったが、もちろんその「ご乱心」を非難・嘲笑する人々も多かった。攻撃は、有名なフローレンス・クックとのスキャンダル疑惑に到って、熾烈なものになった。
フローレンス・クック(一八五六―一九〇四)は、幼い頃から霊視などの能力を発揮していたが、十五歳の時交霊会に参加し、テーブルのみならず自らの体が浮揚するという体験をして、霊媒の道を歩むようになった。その後自動書記現象が現われ、霊現象を統御しているケイティー・キングという女性の霊が現われた。ケイティーは、十八世紀にジャマイカ総督になった海賊ヘンリー・オーウェン・モーガンの娘アニーだと自己紹介したという[Fodor, 1933, p.61]。
そして一八七二年から、ケイティー・キングは「物質化現象」を起こし始め、一年ほど後には全身物質化を果たすようになった。これは、トランス状態に入った霊媒クックを小さなキャビネット(暗室)の中の椅子に縛りつけておくと、蝋のように真っ白な女性の全身像が出現し、参加者と微笑みながら会話をする、というものであった。時にはいくつもの霊の顔や体が出現することもあった。
クルックスは一八七四年に依頼を受けてこの女性霊媒を調査することにし、三ヶ月にわたって自宅にクックを寝泊まりさせ、現象を観察した。クルックスの検証では、現象にトリックはないという結論だった。彼はケイティー・キングの写真を数十枚撮影しているが、その中には、ケイティーと自らが腕を組んでいる場面もあった。霊の脈拍を測ったりもしている。
この報告に関しては、全身物質化があまりにも偽物臭いように見えることから、猛烈なブーイングが巻き起こった。クルックスは若い美女の魅力に騙されている、二人の間には不道徳な関係がある、といった風説まで立った。
さらに不幸なことに、クックは一八八〇年に英国スピリチュアリスト協会(BNAS)で行なわれた交霊会で、ペテンを働いたところを取り押さえられた。全身物質化の最中、ある参加者が「霊」を取り押さえ、クックがいたはずのキャビネットを開けてみると、そこには空の椅子とクックが着ていた服や靴などがあるだけだった、というのである。[オッペンハイム、一九九二年、三八頁]
クルックスは一連の騒動に嫌気がさしたのか、その後は霊媒の研究から遠ざかり、後にSPRが設立された時も積極的な活動はしていない。しかし、クルックスは自分が目撃し、時には計器を用いてペテンを防止しつつ観察したいくつもの事実を、詐欺だとは思わなかった。ペテンの暴露から、クックが起こしたすべての現象をトリックだったとする見方も多いが、クルックスはその真実性を最後まで擁護し続けた。スピリチュアリズムを積極的に擁護する発言は見せなくなったが、晩年には死後存続の確信を知人たちに公言した。

【4】――彼の姓は文字に沿ってホームと表記されることが多いが、ヒューム伯の血族の出と言われており、米国では Hume と名乗っていたので、「ヒューム」が正しいようである。Fodor, 1933, p.171 参照。