13-超心理学の問題

超心理学は、霊の実在や死後存続といった問題は直接扱わず、生きている人間の心が持っている「現在の物理的法則では説明できない現象を起こす能力」を探究するようになったということは前に述べた。
ESP(extrasensory perception=超感覚的知覚)とは、現在知られている物理的方法による五官の知覚とは異なるやり方で、情報などが伝達されることを指す。よく知られているテレパシーは人間の心と心の間に起こる「思念伝達現象」であるが、ESPは、透視、予知、また、存在するとは思えないもの(遠くにいる人や死んだ人の姿など)に対する知覚なども含まれる、きわめて広い概念である。物体からその所有者に関する情報を読み取る「サイコメトリー」(霊査)といったもの、さらに通常の方法では知ることも推定することもできない過去の情報を得る「後知」(retrocognition)といったものも含まれる。
ESPはかなり多くの人が体験している事柄で、イアン・スティーヴンソンは「この問題に関する信頼性の高い図書は、中程度の大きさの部屋の三面に並んだ本棚にぎっしり詰まるほど出版されている。信頼性の高くない図書は、宮殿のような大邸宅の全室に設置された本棚を埋め尽くすほどの数にのぼるだろう」と述べている[スティーヴンソン、一九九〇年、二七頁]。なお、「信頼性の高くない」というのは実証性の検証が不十分だということで、でたらめという意味ではない。
PK(psychokinesis の略。念力)は、物理的介入なしに、心の影響のみによって物体の状態を変化させることである。ESPが「情報伝達」であったのに対し、PKは超常的な「エネルギー伝達」ということになる。よく知られているスプーン曲げや、テーブル傾げ(table-turning)などがこれにあたる。ありえない所から音が聞こえたり、物が飛ぶといった「ポルターガイスト」現象も、広い意味ではPKに含まれる。気功家が「気」を放出して蝋燭の炎を揺らしたり物体を変形させたりするのも、「気」が実証されていない以上はPKに含まれることになる。量子力学的なレベルで影響を起こすものをミクロPK、普通の物体に対するものをマクロPKと呼ぶが、後者はいわゆる超能力者によってしか起こらないようである。
また対象が生体である場合、特に区別して生体PKと呼んだりする。これは比較的起こりやすいもので、植物に念を送ることで生育が早まったとか、原始的な生物に一定の方向に動くよう念を送るとそのようになるとかいった実験がなされ、成功した例が報告されている(ただしこれらの場合「情報伝達」なのか「エネルギー伝達」なのかは曖昧になる)。自分の体に対して強い念を送ることで傷や病気を治したりすることもこの生体PKに含まれるとする考え方もある。また「熱い鉄の棒を触れます」と催眠暗示をかけ、普通の金属棒を触れさせると火傷と同じ水疱ができた、といった実験も報告されているが、これも一種の生体PKと言えるだろう。
ESPとPKは、「現行の物理科学では把捉できていない何らかの情報・エネルギー伝達経路が存在する」ということと、「人の心は時にそれを利用することができる」ということを意味するものである。実際は霊が関与している可能性は排除できないのだが、当面はそれに触れる必要はない。これなら「ありそうなこと」「そのうち経路や仕組みが発見されるに違いない」と思う人も多いだろう。
超心理学は、当初は非常に希望に満ちていた。ラインらの実験では、霊媒ではない一般人が透視や微細な念力を発揮することがあるということが、かなりはっきりと明らかにされていった。またいわゆる「超能力者」によって、念写や予知、体外離脱、物理的超常現象(スプーン曲げや密閉された箱の中の鎖をつなぐなど)といった実験も行なわれ、非常に興味深い報告が蓄積されていった。アカデミーからの認知もささやかながら獲得し、アメリカの幾つかの大学には超心理学科も誕生した。
しかし、やがて超心理学は壁にぶつかり、「手詰まり状態」になった。超心理学の詳細な歴史は、それなりに非常に面白いものであるが、ここでは立ち入ることはできない。すっとばして結論に行けば、これまでのところ、超心理学からは「確乎とした結論」が出ていない。少なくとも、そこから出された知見は人類の知に組み入れられるような形でのものにはなっていない。
超常的な現象が起こっていないということではない。超心理学の実験室では、通常の科学よりもはるかに厳しい管理(たとえば二重盲検法)が行なわれており、その中で、現行の物理法則では説明できない現象が起こっている。しかし、「超常現象が観察された」という点以上には、話が進まないのである。
とりわけ問題なのが、「再現性」――ある手続きを踏んである実験をすると、必ず同じことが起こる――の低さである。ある被験者がカード当てできわめて高い得点を上げたとしても、もう一度行なうと、まったく結果が出ない。あるいは別の実験者が試みても同じような結果が得られない。「再現性」は実証の核になるものなので、これが脆弱であることは致命的だとされる。
実のところ、「再現性」はきわめて特殊な領域でしか実現しないものである。ある物質的現象が起こるためには、いくつかの変数(原因)をコントロールすればよい。通常の状態で水が一〇〇度で沸騰するのは、水の沸騰に関わる変数がきわめて少ないからである。だが、変数が多い現象では、そのすべての変数をコントロールすることができない。たとえば経済の動きなどの「複雑現象」では、莫大な変数によって一つの結果が出てくるのであって、一つの変数(たとえば通貨供給量)をコントロールしても、望む結果(インフレ抑制)ができるわけではない。こうした現象を予測したりコントロールしたりするために「複雑系科学」が提唱されているが、それができるのはせいぜいシミュレーションであって、確乎とした定式が得られるわけではない。
まして、生身の人間が関与してくると、それをコントロールすることはきわめて難しい。天才的な運動選手でも同じパフォーマンスを幾度も同一に繰り返せるものではない。さらに「心」が関与するとお手上げで、人間の心にはそもそも再現性は存在しない。人間の心が大きく関与する現象に再現性を求めることは無理である。しかし再現性のない現象は、科学的知からは排除されてしまうのである。
もう一つ科学的知には「仕組みが説明できる」という要件があるが、これは時折無視される。たとえば触媒現象――自分自身は変化せず他の変化を誘発ないし促進する現象――は、仕組みが解明されていないものが多数あるが、再現性があるので、科学的知に組み入れられる。一定の条件を満たせば、誰がやっても同じ結果が出る。これが科学的知の基本である。
これはある意味で仕方がない。人間の(そして他の多くの動物の)知は基本的に、「原因を探り、それを操作することで望む結果が出せる」という役割を担わされている。原因がはっきりわからず、操作することもできないという知は、この基本からはずれる。もちろん人間の知にはそういう曖昧なものも厖大にあるのだが、科学的・合理的・実証的な知にはそういうものは含まれにくい。
つまるところ、人間の心が大きく関与して起こる「超常現象」は、そもそも科学と折り合いが悪いのである。ある超心理学者は、その論文の題名を「非再現性」とし、「超常現象に再現性を求めることは無理だ」ということが超心理学の唯一の発見だと自虐的に述べている[笠原、一九九三年、一七三頁]。

さらに超常現象には奇妙な性質がある。それは「実験者効果」ないし「山羊・羊効果」と呼ばれるものである。これは、実験者(及び被験者)が、「起こるだろう」と思っていると起こりやすいという現象である。超常現象には実験者も含めた人間の心が関与しているのだから、ある意味当然と言えば言えるものだが、前にも述べたように超心理学においては、強固な懐疑的態度で望むことが要求される。そうでないとペテンをしたり見逃したりするというのである。これはおそらくこの分野のみに要求されることではないかと思われるが、懐疑的態度で臨めば臨むほど現象は起こらなくなる。好意的態度で行なうと現象は起こりやすくなるが、そうなると信憑性が疑われる。厄介なジレンマである【15】。

だが、超心理学の成果は無駄だったわけではない。厳密な監理下でも超常現象が起こったという例証はかなりある(特にESPやミクロPK)が、それよりも注目されるのが、超常現象研究から浮かび上がってきた「とらえにくさ問題(elusiveness problems)」である[笠原、一九九三年]。
「とらえにくさ問題」とは、超常現象が起こっていることがほぼ確かでも、それをはっきりと捉えることがなぜかできないという意味である。前述の「非再現性」や「山羊・羊効果」もその中に含まれるが、さらにもっと奇妙な現象もある。「恥ずかしがり効果」そして「妨害現象」である。
「恥ずかしがり効果」とは、現象がわざと人目を避けて起こるもので、「サイ・ミッシング」とか「転置効果」と言われている現象がこれにあたる。前者は、たとえばカード当て実験で、正答率が偶然値(でたらめにやっている時の正答確率)より著しく低いという現象が起こることがあり、これはわざと正解とは逆の答えを述べているためである(つまりは正解がわかっている)と考えられるものである(「絶対当たらない予言者は、逆に予言の価値がある」というパラドックスを想起させる)。「転置効果」は、指示されたカードではなく、次に出されるカードを(予知によって)当てているといった現象である。これらはいずれも、実験を行なった時点では実験者も被験者も「失敗」だと思っており、事後に検証して初めて発見されたという形をとる。現象を起こしておきながらそれを隠すという、きわめて奇妙としか言いようがない現象である。
「妨害現象」はさらに奇妙なもので、たとえば超常現象が起こっているところをカメラやビデオで記録しようとすると、機械のスイッチが入らなかったり、作動してもまったく何も映っていなかったりする現象である(事後に機械を点検してみても「異常なし」と判定される)。中には、誰の手を加えることもなくビデオの乗った三脚がひっくり返るといった「逆」超常現象が起こることもある。このような現象は多くの研究者が報告している。また、ある超能力者によって、木製の二つの輪をまったく無傷のまま鎖状結合するのに成功したものの、その輪をガラスケースに厳重に保管し展示していたところ、いつの間にか壊れていた、という事件もある。
こうした現象は、人間の心(ないし霊的存在が関与している場合はそれ)が、超常現象を起こすだけでなく、それを否定・隠匿する傾向も持っているということを匂わせている。そしてここから一部の超心理学者は、「超常現象に対する恐怖」「超常能力の保有に対する心理的抵抗」といった推論を展開している。この問題はきわめて興味深い。
「超常現象に対する恐怖」は、きわめて広範に確認できる傾向のようである。アンケートや面接調査などによる分析でも、多くの人が超常現象に対して不安・恐怖といったネガティブな感情を持つことが報告されている。これは単純に、現在の世界観が崩れることへの忌避といった観念や理性の問題ではなく、もっと根源的な心理的反応らしい。中には超常現象を目撃した直後に発疹といった身体症状を起こしたり、その部分だけ記憶を消し去ったりするケースも報告されている。日本の超心理学研究者・笠原敏雄は、超常現象否定論者が検証や反証などの手続きを取らずにきわめて感情的に否定論を主張するのも、この心理的反応によるものではないかと考察している[笠原、一九八七年、五八五頁]。
「超常能力の保有に対する心理的抵抗」、つまり「超常的な能力を自らが持っていると認めることに対する(無意識的)抵抗」という概念を提出したのはケネス・バチェルダーという超心理学者である。彼はテーブル浮揚という古典的な形式を用いた実験で、興味深い試みを行なっている。テーブルの裏面に手などが触れると電気信号が発生する仕掛けを作り、それが別室に置かれた装置に記録されるようにしておく。あとは古典的に、真っ暗な部屋で、何人かがテーブルの上に手を置いて、それが動き出すのを待つというものである。もちろん現象はそう簡単には起こらないが、頃合いを測って、その中の一人が「ペテン」でテーブルを持ち上げてみる。これはテーブル裏面に付けられた装置によって電気信号が発生し、「ペテン」であることが別室で記録される(だがテーブルに手を置いているほかの人間はそれを「ペテン」だとは判定できない)。すると、それが呼び水となって、誰の手が裏面に触れることもなくテーブルが動き出したというのである。これは、「ペテン」によって会席者たちの心に「テーブルは動くのだ」という受容の心理が生まれたことと同時に、その能力を潜在的に持っている人(一人の場合もあるし複数の場合もある)が、「自分がやらなくてもいい」と思うことで「保有抵抗」がクリアされ、能力を発揮させたためではないかと彼は解釈した[笠原、一九九三年、四四七~四七一頁]。
確定的なものではないが、超常現象及びその能力に対しては、きわめて錯綜して奥の深い「心理的抵抗」が見られることは、ありそうである。なぜかということについての強力な回答は出ていない。信頼している世界観が壊れること(およびそれに伴う自己の外的・内的あり方が壊れること)への恐怖という説、時代を支配している認識体系(エピステーメ)に違反する考え方は無意識に排除されたり認識不能化作用が起こるという説(「認知的不協和」と呼ばれる)、さらには人間の心にそういった素晴らしい力が備わっていることを自ら否定するシステムが組み込まれているという説、などがある[笠原、一九八七年、第Ⅴ部、笠原、一九九三年、第三一章]。
もう一点、超心理学者はこうしたことは言わないが、霊界の側が(あるいはその一部が)明確な証拠を残さないように働きかけている可能性もある(たとえばカメラの三脚が倒されるといった事例)。この問題は改めて触れる。

超心理学は、ESPやPKという概念によって、現行の物質的法則を超える「何か」の可能性を拡げたが、それは逆に「霊の実在」や「死後存続」の問題を遠ざける働きもなした。それは、「霊の実在」「死後存続」を示すと思われていた現象が、生きている人間の心によって起こされるESPやPKによって説明されてしまうというパラドックスである。
たとえば、十九世紀のスピリチュアリズム全盛期に「霊の実在」のパフォーマンスとして起こされた様々な心霊現象――物体浮揚、物体出現など――は、霊の仕業ではなく、生きている人間のPKによるものではないか、という疑いが生じる。一般の(あるいは多くの)人間が量子的なレベルでPKを起こすことができるのなら、それを極端に拡大解釈すれば、すべての「霊現象」は実は人間がやっていたと解釈できるのではないか。人間が起こせるPKと、霊のみが起こせる超常的物理現象の間に、明確な線引き基準がない以上、論理的には「すべてが人間の仕業」と強引に持っていくことができる。誰の手も借りずテーブルが浮き、「あなたは霊ですか」という問いにガンガンガンと三つ音を鳴らして答えたとしても、それは臨席者の誰かが無意識ないし意識的にやっているのではないか、紙や石板に死者からのメッセージが書かれたとしても、それは霊媒の強力な念力によるものではないか……。
では、死者が身元証明とともに語ったとされる「霊信」はどうなのか。ここでもESPの極端な拡大解釈が登場する。それが「超ESP仮説」である。これは「死後存続」の証明問題でしばしば問題となるものなので、少し詳しく述べることにする(アラン・ゴールド「超ESP仮説(抄)」[笠原、一九八四年、三〇三~五頁]参照)。

ある人に霊媒が「あなたの死んだお母さんが今ここに来ている」と告げ、母親が当人に対して使っていた特殊なニックネームや、幼かった頃の出来事、特に母親と当人しか知らなかった出来事などを明かしたとする。ごく普通の人であれば、この体験は非常に驚きとなり、母親が死後も生きていることを実感するだろう。
ところが、霊媒のESP能力を無制限に拡大していくと、これは証明にはならなくなる。霊媒は目の前にいるクライエントの心の中を読み取って、母親の人となりや、ニックネームや、私的な出来事の情報を獲得し(クライエントの記憶から引き出し)、「死んだ母親」を作り上げている可能性がある、というわけである。霊媒自身は決してそんなことはしていないと主張しても、「それはお金を得るために嘘をついているのだ」とか「自分では意識せずにやっている」といった反論が生まれる。
では、死者しか知らない事柄が明かされたとしたらどうか。誰にも知らせずこっそりと掛けておいた生命保険の番号が明かされ、探してみると事実と符合したという場合はどうか。これも、強力な透視能力で保険会社の記録を読み取ったと強弁することが、少なくとも論理的には可能である。
別の例を出してみると、ある人が何らかの契機で「前世」の記憶を語り、その詳細が史実と一致することが証明されたとする。当人はもちろん、同席していた人もそれらの事実を知っていた可能性がないとしたら(これを証明すること自体きわめて大変なことだが)、それは真正な前世記憶だと言えるか。これに対して「超ESP」では次のように説明する。当人は、突然(もともと超常的能力がないのに)、無意識に(当人はやっていないと主張しているのに)、「強力な透視能力」を発揮し、しかるべきところにある「記録」(関係する人々の記憶を含む)を読み取り、それらを瞬時に総合して、その「前世記憶」を捏造したのだ、と。
この仮説自体、途方もないものである。これまでの厖大な記録からすれば、人間のESP能力はかなり微弱で、意のままになるものではないことが明らかである。しかし、否定論者は、この論理的可能性がある限り、死後存続は認められないと主張する。
百数十年に及ぶ「死後存続の証明努力」の前に最後に立ちはだかったのが、この仮説であった。少なからぬサイキカル・リサーチや超心理学の研究者は、「超ESP仮説がなければ死後存続はとっくに証明済みとされていたはずだ」と考えている。というより、この「超ESP仮説」は、死後存続を何としても否定しようとしてひねり出された仮説だと言える。ノッティンガム大学心理学講師で超心理学者のアラン・ゴールドはこの仮説について、「このような理論の主唱者であれば、観察可能な事実をいくら突き付けられても、目を醒ますことはまずないのではなかろうか」と嘆息している。
ただし、超心理学者のどのくらいがこの仮説を支持しているのかは不明である。超心理学に関係ない「死後存続」否定論者は、そもそもESPやPKの存在すら認めないのだから、このような説を展開することはあまりないように思われる。超心理学者たち自身が、自ら作り出した幽霊に怯えているのではないかという疑いもなくはない。しかしながら、死後存続の証明手続きに、この仮説が大きな影を落としていることは間違いない。

【15】――余談だが、一時話題になった「常温核融合」でも、好意的な実験者と懐疑的な実験者の間で同様な結果が出たという。そしてその実験そのものが現在では破廉恥なスキャンダルのように扱われている。ここには何か不思議な符合が感じられないだろうか。