24-生まれ変わり②

再生問題が開示する問題はさらに続く。
生まれ変わりに関して、多くの人が抱く疑問は、「もしそれがあるなら、なぜ通常の人は過去世の記憶を持っていないのか」ということである。「思い出せない過去世など意味がないではないか」という意見もある。
確かにこれは難問である。学びそこなったことを学ぶために再生してくるのなら、過去世の記憶はあった方が効率がよいではないか。これについて霊の側からの答えは、「過去世の記憶があると生きるのに非常に難しくなる」というものである。そっけないし、すっと納得できるものでもない。われわれの心は、そういった複雑な記憶を持ちながら生きるのには、あまりに脆弱だということだろうか。確かに過去であまりに残酷な殺され方をしたとか、何かを切望しつつ得られないで終わったといった記憶があると、それにあまりにも囚われてしまうかもしれない。
もう一つ考えられるのは、現段階での人類には、「死後存続」の明証は得られないようになっているのかもしれないということである。前世の記憶が甦れば、死後存続は容易に納得される。前世記憶と死後存続説は不可分の問題なのであり、現代の人類にとっては、微妙に危険な問題なのである。このことは歴史の章でも触れたことであり、また後に改めて考察したいところである。
ちなみに現代の「前世療法」の隆盛に伴う問題は、このことと符合する。無理やり前世記憶を甦らせることは害になることもあるので、不必要な前世想起は避けるべきであるという知見がある。これはある意味正しいし、霊の主張とも合致する。また一方で、前世療法のブームは、そうした弊害を含みながらも、人類の「死後存続」に対する認容度を高めるモメントとなっている。前世療法ブームによって「生まれ変わりを認める」人のパーセンテージが上がっていることは、人類史の一つの転換点を示しているのかもしれない。

過去世記憶の保持という点で、スティーヴンソンが収集した二〇〇〇ほどの事例の意味はどうなるだろうか。それらのうち多数が、非業の死を遂げている。そして前世記憶は語っても、中間世つまり霊界の記憶は語らない。ここから推察されるのは、そうした事例は、地上への異常な執着や突然すぎる死など、通常とは異なるモメントがあって、正規のルートである「霊界回帰」をせずに再生してきたのではないか、そのために通常は施される「記憶の隠蔽」や「霊的身体の傷の回復」などが行なわれず、記憶の保持や致命傷の持ち越しなどが起こる、ということである【23】。めったにないことだが、自らが死んだことを自覚せず、地上をうろつき回る魂があり(いわゆる「未浄化霊」だが、必ずしも悪さをするとは限らない)、そうした魂の一部が、生まれてくる胎児を見つけて「割り込んで」くるということもあるのかもしれない。監督にあたる高級霊がそれを許したのか、何かの手違いなのかはわからない。スティーヴンソンの事例の中には、次生の人物が生まれた何日か後に前世の人物が死亡しているという驚くべきケースがある[スティーヴンソン、一九九〇年、一九四頁]。これなどは「割り込み」あるいは「憑霊」に近いようにも思える。
実は、「生まれ変わり」と「憑霊」は区別が曖昧である。前述した「シャラーダの事例」は、病気をして瞑想を始めたことによって人格変換が起こっているので、「憑霊」の可能性が高い(スティーヴンソンは再生か憑霊かを検討して前者だと推論しているが)。人格変換が起こっている時に主人格の記憶がないということも、「憑霊」の特徴を示している(霊媒が霊に憑依されている時、霊媒自身の記憶はおおむね消えている)。しかし過去世記憶が強烈に出てきたのか、別の霊が憑依したのかは、はっきりと判定することはできない。
だが改めて考えてみると、われわれが生まれてくるというのも、ヒトという生物にわれわれの魂が入るわけで、ある意味では「憑霊」なのである。われわれは皆「憑霊体」だということになる。ただ、一つの魂が入っているのに別の魂が入ると「憑霊」、まっさらな肉体に魂が入ると「生誕ないし再生」ということになる。

まだ問題は終わらない。スピリチュアリズムの霊信では、「真に愛していた人とあの世で再会できる」ということが主張されていた。しかし、相手が生まれ変わっていたらどうなのか。もう霊界にいないのだから、再会は不可能ではないのか。
このことに関してスピリチュアリズムの霊信でははっきりとした回答はなかった。それに対して一つの驚くべき回答を示したのは、中間世探究のマイケル・ニュートンである。彼によると、「霊魂は分割可能である」という。そして再生する際に、魂は自分の一部を霊界に残していくというのである(かなりの部分を残す場合もあるしわずかしか残さない場合もあるという)[ニュートン、二〇〇一年]。
これが正しいのかどうかはわからない。他に同様な報告はないからである【24】。ただし、スピリチュアリズムの霊信でしばしば「あなたは今現世にいるが、霊界にもいるのである」といった謎めいた言葉が表明されていた。このこととニュートンの見解は一致するようでもある。
マイヤーズ通信には次のような記述がある。
《魂としてのわれわれの生活は――自分の個体的自我は別として――二重生活なのだと理解する必要がある。私は同時に二つの生を生きる。つまり、一つは形態の中での生活、また他の一つはわが属する共同体(類魂)の意識の中での心的な生活である。》[不滅への道、七四頁]
ホワイト・イーグルにも短い言及がある。
《貴方は、いま地上にいるわけですが、同時に、ここ霊界にもいるのです。》[ホワイト・イーグル霊言集、七〇頁]

また、「前世の私」がそのまま「次世の私」になるというような単純な生まれ変わりを否定する見解もある。
マイヤーズ通信によれば、霊的に進歩を遂げた魂は、自ら再生するのではなく、自分の「カルマ」ないしは魂の「模様」を、新たに生まれる仲間の魂に託し、それを見守ることによって霊的成長を果たすとも言われている[不滅への道、七三頁、人間個性を超えて、九八~九九頁]。この「カルマ」「模様」がどういうものかは詳しく述べられていないが、主要な記憶や性向が含まれるのだとしたら、新たに生まれる魂は前世の魂の「部分」を託される魂ということになる。
日本のスピリチュアリズムの草分けである浅野和三郎(一八七四~一九三七)は、このマイヤーズの再生論に触発されて、「部分再生論」「創造的再生論」を唱えた。浅野は大本教団で二万に及ぶ「憑霊事例」を「審神者【25】」していたが、優秀な霊媒を通して「物故霊の呼び出し」をしてみると、ほとんどすべての物故霊が降りてきたことから、霊は再生しても霊界に残るのではないか、つまり再生するのは霊の一部=分霊ではないかと推理した[井上、一九八〇]。
だが、こうなるとわけが分からなくなる。私のある部分だけを担って新たに生まれた魂は、果たして私なのか。その魂は私であると同時に他の魂でもあるということになるのか。それは「再生」ということにはならないのではないか。
マイヤーズ通信も、一方では未熟な魂は「例外なく再生する」と言いながら、「前世は自分の一生であってまた自分の一生ではない」「私という存在は二度とこの世には再生しないのである」といった矛盾した表現をしている。また、こうした見解はシルバー・バーチにも見られる。
《再生はあります。しかし一般に言われている形(機械的輪廻転生)での生まれ変わりではありません。霊界には無数の側面をもった、霊的ダイヤモンドとでもいうべきものがあります。その側面が全体としての光沢と輝きを増すための体験を求めて地上へやってまいります。これでお分かりになるように、地上へ生まれてきたパーソナリティは一個のインディビジュアリティの側面の一つということになります。少しも難しいことではないのですが、人間はそれを勘違いして「私の前世ではだれそれで、次はまた別の人間に生まれ変わります」などと言います。そういうものではありません。生まれてくるのはダイヤモンド全体に寄与する一つの側面です。その意味での再生はあります。地上で発揮するのは大きなインディビジュアリティのごくごく小さな一部分にすぎません。》[バーチ⑨、二〇〇~二〇一頁]

このあたりが、「再生問題は人間には理解できない」と言われるところなのであろう。少なくとも、通常の「私」「自己」「個性」という概念は、ここでは通用しない。「私」とは何なのかという、大問題に遭遇してしまうのである。
「私」「自己」というものは、通常、一つの実体的な塊のように考えられている。だが、様々な霊的知見を見ていくと、どうもそういうものではないらしい。私は、この世にこうしていつつ、あの世にもいる。私は本質的な私の一部に過ぎない。私は生まれ変わるが生まれ変わらない。そんな私は私なのか。
「私が私である」という感覚を「自己同一性」と呼ぶ。ところが、記憶もない過去世の私は、自己同一性の範囲にはない。催眠で想起した人たちはそれを「自分の過去だ」と感じるようだが、それは本当に自己同一性だろうか。これもまた難問である。しかし、記憶が思い出せるかどうかは、原理的には自己同一性と関係ない。記憶がない人生の部分、たとえば三歳以前とか、どうやっても思い出せない時期とかは、「自分ではない」と言えるのだろうか。また、おぼろげに思い出せる五歳の私と現在の私は、自己同一性があると言えるのだろうか。「私」というのは、意識や記憶とは別の次元で考えられるものではないだろうか。いずれにせよ、こうしたことを理解するには、現在の人間の知性や意識では無理なのかもしれない。
生まれ変わりの問題は、こうした「人間知性にとっての難問」を引き起こす。霊信が再生問題を積極的に語らないのは、こうした理由もあるのだろう。ただ、基本的(初歩的)な考え方としては、「魂は成長のために地上に生まれ変わる」という理解でよいように思われる。

【23】――「前世刻印」がなぜ起こるのかはうまく説明できない。おそらく「霊体」の傷が、その強烈な記憶とともに残り、生体に影響を与えるのであろう。スティーヴンソンは「思念」が生体に影響をおよぼす事例として、呪いや「妊婦刻印」(妊娠している女性が奇形などを見て衝撃を受け、それに強く関係した奇形が新生児に出現する)といった現象を挙げている。
【24】――ただし、西洋十二世紀の「異端」カタリ派の教義には、これにきわめて近いものがある。それによると、人間の魂である「アニマ」は、「悪」の誘惑によって地上に落とされたのだが、残りの部分である「霊の体」と「スピリット」は天界にとどまっており、スピリットはアニマと常につながろうとしているという[渡邊、一九八九年]。
【25】――審神者は日本の伝統的な職掌で、ヨリマシ(霊媒)に憑依した霊の素性を吟味したり、霊言を通訳したり、ふさわしくない霊が憑いた場合は退去させたりする役割を担う。