37-仏教について

スピリチュアリズムは西洋社会において勃興してきたものであるので、仏教に対しての言及は少ない。インペレーターの霊信は人類史における宗教の発展について述べ、インドとエジプトの重要性を指摘しているが、細かく教義や史実を論じているわけではない。
仏教については、そもそも仏教とは何かという定義ができないほど多様な教義があるので、簡単に論じることはできない。常に「正統」に固執して血みどろの戦いをしてきたキリスト教とは大きく異なり、自由で鷹揚であるが、逆に変なものが「自らは仏教である」と言って登場した時に、それを排除できないという弱点がある(オウム真理教が仏教であったのかどうかは決定できない)。
近代仏教学の成果によれば、仏教の祖であるブッダ自身の基本的な姿勢は、ウパニシャッド哲学以来の「輪廻」と「苦」の概念を前提として、そこからの「解脱」はいかにして可能かということを追求したものと考えられる(これはブッダだけの特殊な主題ではなくジャイナ教教祖マハーヴィーラも同じ主題を共有していた)。ところが、ブッダは霊魂に関して「無記(論及しない)」と宣言したために、またおそらく「反実体論」の傾向が強かったために、次第に仏教では「霊魂」や「個人の主体」を否定するようになっていき、さらには「空」の哲学に見られるように、あらゆる実在を否定する難解な哲学へと発展していったものと思われる。「無記」はあくまで「論ぜず」であり否定ではない。ブッダ自身は霊魂の実在を認めていたとする学説[中村元『ゴータマ・ブッダ』]もあり、そうでないといったい輪廻する主体、苦を味わう主体とは何なのかという話になり、ブッダの基本的前提である「輪廻からの解脱」も無意味になってしまう。端的に言って、輪廻がなければ、苦である生を逃れるためには、早く死ねばよいということになってしまう。日本仏教はあまり触れたがらないが、輪廻は仏教の前提思想である。
前に触れたように、生まれ変わり問題は非常に難解なところがあり、スピリチュアリズムでも後期になって言われるようになったものである(いまだに認めないスピリチュアリストもいるようである)が、「一応はある」という立場を主流と考えれば、仏教(ウパニシャッド哲学)以来の主題をスピリチュアリズムは引き継いでいることになる。ただしインドの輪廻説は、人間が昆虫になったりするというきわめて奇矯なものであり、「退歩はない」とするスピリチュアリズムの見解と大きく異なる。また、死後きわめてすぐに再生するとすることによって、「霊界」の存在を抹消しがちな傾向がある。「間断なき再生」は「死後存続説」ではあるが、「霊界否定説」「不断の現世的生の継続説」ともなる。
そして仏教とスピリチュアリズムとが最も異なるところは、「生存」を否定的に見るか肯定的に見るかである。マイヤーズ通信はそのあたりのところを批判している。
《仏陀は欲望を抑えることによる苦からの解脱を要求した。彼は苦の源を絶つべきだと説いた。事実、彼の信徒たちは地上的本性の基本部分を殺してしまえと要求されたのである。……仏陀の宗教は道徳的怯懦を暗示しており、そのことは彼の目的が霊的な進歩にあったとか、あるいは霊的な完成へのあこがれであったとかの美辞麗句によっては言い逃れられない。その目的は実のところ再生の定めから逃れることであった。……彼は苦への恐れ、すなわち神が人に授けた本性に対する恐れを表わしているのである。……つまり生活に背を向けたのである。というのも禁欲主義者や聖者〔という側面〕が自己内部の他の自我を圧倒し、遂にはすべての自我を支配したからである。》[人間個性を超えて、二二一~三頁]
《自我の統制を求める仏教徒ならば冷たい自己本位の道を実践しなければならない。彼は誰も傷つけない。人々に道徳や禁欲生活を教え導く限りにおいて、人々を益することもあるであろう。しかしながら彼は自己の救済のみにかかずらわっている。自分の魂の幸せを得ることにのみ全力を投球している。欲望と、そこから発する人間感情のすべてを除去することによって人類全体からは孤立してしまう。やがて彼はいわば無人島に住むに等しいこととなる。……彼は神聖なことどもについての瞑想をつづけるかもしれないが、神や大宇宙を真に認識するに至らないであろう。彼は鈍く消極的になり、あたかも夢から覚めず眠りつづける人のようである。もしそうでなければ、ふいの確信によって自己の幻想を打ち砕くときがくる。……そこで彼は彼の恐れていた再生をするか、苦痛を忍んで知的自己没頭のサナギ状態から抜け出すかの選択をしなければならないのである。》[同、二二六~七頁]
ただし、マイヤーズは仏教的探究を全否定しているわけではない。
《死後の生活においては二つの道が看取される。われわれはその本性に従って仏陀の道に従うかナザレのイエスの道に従うかを選ぶのである。》[同、二三七頁]
イエス主義が「生の肯定」「他者への関わりの重視」を、ブッダ主義が「生への忌避」「自らの魂の救済」を象徴しているとするこの意見は、いささか極論に過ぎるかもしれないが、宗教的探究のタイプ論としてはきわめて興味深い。そして、スピリチュアリズムはここで言うイエス主義に近いと言わざるを得ない【34】。

もう一つ、仏教の問題点として挙げられるのが、「無神論」である。原始仏教ではブッダのさとり後に「梵天」が出現して、教えを人に説くように説得するといった場面があり、おそらくもともとのヒンドゥー思想に由来する多神教(天的存在の肯定)は暗黙の前提だったように見える。ところが大乗仏教の「空」思想が隆盛になると、霊魂はもとより、神的存在も否定されてしまう。インドの宗教色濃い文化の中、神や霊をめぐる言説はあふれるばかりにあり、その中で新たな主張や改革思想を展開しようとすれば、そういった分野をむしろ無視し切り捨てていく必要があったのかもしれない。時代の要請は、神学や霊学ではなく、信仰の内面生活を賞揚していく思想を求めていたのだろう。革新者としての仏教は、そこできわめて特殊な宗教として展開することになる。それは、「準無神論的宗教」というものである。神や神的存在はなく(天人界はあるかもしれないがあまり問題にならない)、死後の霊魂が赴く世界もない。輪廻は認めても、すぐに生まれ変わってくるために、ほとんどそれは「無死」でしかない。さらに反実体論を推し進めると、「私」も「霊魂」も実在しない。
こうして仏教は、「超越論」を捨てて人格の陶冶や心の平安の獲得のための哲学および心理学となっていく。あるいは人生訓・自己探究術。だが、それは宗教なのだろうか。ショーペンハウアーが言ったように、「仏教は生理学であり精神衛生学」となってしまったのではないか。
日本仏教はこのあたりについて曖昧で、おまけにそれぞれの宗派の祖師の思想を重視しているために、話が混乱している。日本仏教は密教という「ヒンドゥー教的仏教」と法華経という「有神論仏教」が主流となっているので、「仏教無神論説」には同意しない人も多いだろうが、果たしてそういった人たちがどれほど真剣に「仏菩薩」の実在を信じているのかは、いささか疑問が生じるところである。そして一方には「空」思想を継承した禅仏教もあって、そちらは「神などいない」と平然と言える人がいる。有神論と無神論が同居する宗教など、仏教くらいのものだろう。
ともあれ、仏教の問題は、「この世を超えた世界」や「人間を超えた知性的存在」の実在性を、限りなく影の薄いものにしてしまう点にある。そして、生理学や心理学、あるいは人生訓となった仏教は、現代の正統思想である唯物論にすり寄っていく。死後のことはわかりません、輪廻や浄土や仏菩薩や霊魂が実在するかどうかも問題ではありません、そういったことは「戯論(けろん)」であって、それを探究するのも「煩悩」「執着」である。重要なのはそういったことから独立している「心」である。煩悩を捨てて心の平安を獲得することが仏教の本質です、仏教はより安らかな人生を送るための知恵なのです……。
そういうものは宗教ではない、と断定する権利は誰にもない。ただ、超越世界や超越存在、そして死後存続主体を捨象してしまい、仏教を「安らかな人生を送る」ための思想・実践ということに「縮小する」ことは正しいのだろうか。そして、そう規定しながら、死者の供養をし、墓を建てたり儀礼を行なう(そしてそれによって富を得る)というのは、あまり首尾一貫した態度ではないように思える。まあ、「方便」「サービス」と言えば何でも可能だが、何のための方便・サービスなのか。「葬式は生きている人たちのためのものです」と平然と言って澄ましていてよいのだろうか。

もう一つ、日本には特殊な仏教がある。浄土教である。浄土教は中国で発展したもので、果たして仏教と言えるのかどうか疑問のところもあるが、日本で浄土真宗は仏教の最大宗派ということになっている。その浄土教の教えの中核は、阿弥陀仏の慈悲にすがれば(念仏をすれば)、人は皆死後浄土に行ける、ということであろう。(ちなみにこの阿弥陀仏という存在は、この世を統括する釈迦仏とは別個の存在のようであり、非常に奇妙な規定である。)
これは構造的にはキリスト教に近似している。一部には浄土教にキリスト教の影響を読み取る説もある。中国の景教、つまりネストリウス派が浄土教成立の時代に活躍しており、影響があったのではないかというのである。その真偽のほどはわからないが、イエス・キリストを神の子と信じ、終油の秘蹟を受ければ(どんな悪人でも)天国へ行くというカトリックの救済の構造と似ているところはある。そしてキリスト教と同様、その後どうなるかははっきりしない。親鸞は生まれ変わりもあると論じていた(還相回向)という説があるが、これも真偽のほどはわからない。
スピリチュアリズムの教えでも、よほど悪に固執している魂でなければ、皆が「常夏の国」つまりある種浄土に似た世界へ行く。しかも、そのために何かを信じたり、儀礼をしたりする必要もない。「念仏のみ」を主張した親鸞に近いかもしれない。
だが、問題はその先にある。浄土教もキリスト教も、浄土なり天国へ行けば、そこで終了ということになる。そこで何をするのか、その先に何があるのかは触れられていない。それに対してスピリチュアリズムでは、死者がまず赴く「常夏の国」は、まだまだ旅の途中であると説く。そこから上に行くにせよ下に戻るにせよ、そこはあくまで経過点でしかない。
「単に解決を先に引き延ばしただけだ」と言われるかもしれないが、それが真実であるらしいので仕方がない。そして、先に見たように、より高次な世界のありようを(漠然とではあるが)伝えることで、スピリチュアリズムは人間はどうあるべきかを理論的に説明するのである。

【34】――仏教にも「慈悲」の思想があると反論する人もいるだろうが、「慈悲」についての教学やその理論的根拠付けは希薄に思える。

*本ブログの「宗教論1 仏教」の「仏教って何だろう」「浄土の話」もご参照ください。