39-高次体験指向型宗教

「高次体験指向型宗教」というのは変な命名だが、人間が生きたまま高次の霊的体験をすることに目的を置くタイプの宗教を総称したものである。具体的には、一部のヨーガ、一部の仏教、神智学、などであり、いずれもインドに淵源を持つ(インド由来ではないがトランスパーソナル心理学をこれに加えてもいいかもしれない)。それぞれは異なるし、その細かい内容はとても把握しきれるものではないので、大まかに捉えてみようということである。
たとえば本山博の説くヨーガでは、厳しい瞑想修行をしていくことで、行者の魂はアストラル次元、カラーナ次元、プルシャ次元という高次な次元(高次の霊界と解釈してよいと思われる)に昇り、自らの意識をそうした高次な意識に一致させる。そして高次の叡智と力を得た魂は、自らのカルマを消除し、輪廻から脱する。また慈悲の行ないとして超常的な能力を発揮し様々な奇跡を起こしたりすることもできる(ただし超越的世界を問題にしないヨーガもあり、むしろそちらの方が主流かもしれない。それは宗教というよりは心身鍛練技術に属するだろう)。
一部の仏教も、瞑想などを通して、高次の霊的体験である「空」体験や「さとり」をめざす【36】。上座部仏教の瞑想であるヴィパッサナーでは、修行者は霊界や仏菩薩界を体験し、さらにそれを超えた空の世界を見るといい、それが「さとり」だとされる。密教では厳しい修行を通して、生きたまま仏となり(即身成仏)、人間も輪廻も超脱することをめざす(スピリチュアリズム側から解釈すると、人間がそのまま高級霊になるということになるだろうか)。

仏教は様々な流派に分かれてしまって、出発点が見えなくなっているが、もともとの中核には、「高次の霊的体験によって、煩悩やカルマを消除し、輪廻から解脱する」という志向があることは確かであろう。「空」を掲げた中観派も、哲学を構築して満足したわけではなく、その「世界の見方」によって解脱をめざしたはずである。仏教瞑想の展開である禅も、「何ものにもとらわれない自由な境地」といった一種心理的解釈を掲げたりしているが、基本は高次体験によって人間の限界を超える試みであると言えよう(優れた修行者は語らないにしても何らかの霊的体験をしているように窺われる)。
神智学は、しばしばスピリチュアリズムの双子のように見なされたりもするが、内実はかなり異なる。大まかに言うと、スピリチュアリズムは「憑霊型霊媒」を通した「霊のメッセージ」を重視するのに対し、神智学は「脱魂型霊界探究者」たろうとする。神智学徒にとってスピリチュアリズムの霊媒行為は、意識や意志を放棄した非理性的で危険な状態であり、望ましいものではない。神智学徒は自らの意識や理性を保持しつつ、高次の霊的存在と交渉し(神智学は「身近な死者との交信」を低級なものとして忌避した)、自らの存在や現実をコントロールする力を発揮することをめざす【37】。

非常に大雑把で恐縮だが、これらの「高次体験指向型宗教」は、きわめて魅力的なものである。生きた身のままで高次の霊界へ赴くことができ、高次な意識と一致し、その叡智と力をもって自己や現実をコントロールするとともに、他者を救う。こうした達人がたくさん出てくれれば、人類の進歩には大きな貢献となるだろう。
しかしスピリチュアリズムはこうしたことを推奨していない。なぜだろうか。
おそらく、こうした高次体験は、ごくわずかな人間にしか不可能なものだということがある。またそこで得られる叡智も、理解できる人は少ない(ブッダも悟りの直後、「私が証得したこの真理は、深遠で、智者のみが知り得るものである」と言っている)。これに対してスピリチュアリズムはあくまで一般の人々に、「人間は霊である」ということを知らしめることをめざす。霊媒による「普通の死者霊との交信」がいかに「低級」なものであろうと、それによって慰められ、霊の自覚へと一歩を踏み出せるのなら、それは大きな意義を持つ。人類が唯物論という危機に瀕しているこの時代、人類の霊的進歩のためにはこうした「大衆的」な教えも必要となろう。
「いや、ごくわずかでも偉大な先駆者が出て、大衆を引っ張っていくことが必要だ」という意見もあろう。それは正しいかもしれないし、望ましいことである【38】。しかし、まだそれにふさわしい成長を果たしていない魂には、高次体験は困難であるし、無理にそれを求めることは危険ですらある。
さらに、このあたりは非常に微妙な問題になるが、高次体験がすべてそのまま「カルマの消除」や「偉人の誕生」になるかということがある。おそらく、成長段階の必然としてそういう体験に至った魂は、高次世界の意識や叡智や力を獲得し、地上での生の課題を解決し、もう生まれ変わる必要もなくなるのかもしれない。しかし、未熟な魂が、あの手この手を尽くしてそうした体験をしたとしても、それは「かりそめのもの」になり、そして、時にはその体験の強烈さによって、まだ脆弱な自我が壊れてしまうということもあるのではなかろうか。
もう一つ言えば、「カルマ」、スピリチュアリズム風に言えば「地上で学ぶべき課題」を、数回の高次体験で解決するというのは、いささか「ズル」なのではなかろうか。「地上で学ぶべき課題」は手間暇を掛けて地上で学ぶべきであって、スーパー体験によってそれを「チャラ」にしてよいものだろうか。小学生が何回か大学の講義に出てノートを取ったとしても、それで中学高校を免除されることになるのだろうか。
インペレーターの霊訓には次のようにある。
《本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけにはいかぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。》[霊訓、一六三頁]

高次体験への志向を全否定する意図はない。このあたりはマイヤーズ霊の言った「二つの道」があるのかもしれない。自己の力、意識、意志をたのんで、高みへと向かおうとする道と、自らを低め、高次霊の支援を仰ぎ、他者への献身を通して魂を成長させようとする道と。「われわれはその本性に従って」いずれかの道を選ぶべきなのだろう。

【36】――ブッダの体験した「さとり」がどういうものだったのかについては様々な議論があるが、それがある種の心理的状態だったとか、「万物は実体がない」といった哲学的認識だったという論は疑わしい。近代の仏教学者は現世を超越した霊的世界などというものは認めないから、あれこれと現世内の概念で解釈しようとするが、それはクラシックの超絶技巧曲を卓上ピアノで弾こうというようなものである。一心理状態や知的認識が「輪廻解脱」の保証になるというのはどだい無茶であろう。ブッダは明らかに高次の霊的次元の体験をしていたのであり、たとえば『阿含経』にある次のような言葉は、それを明かしているように思われる。
《われは種々の過去の生涯を想いおこした。……われは清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、としてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを見た。》
自分の複数の過去生を思い出した、そして「超人的な天眼」によって、たくさんの人々が業によって生まれ変わり死に変わりしているのを見た、と述べている。これは明らかに超常的神秘体験、高次霊界体験である。
【37】――神智学とスピリチュアリズムの指向の違いについては、津城、二〇〇五年が明快に論じている。
【38】――スピリチュアリズムの霊信には、「今回で上がり」という魂は、市井の片隅で、人に知られることもなく、周囲の人々に黙々と奉仕するような魂であるという説もある。
《偉大な人々はしばしば全く無名の生涯をおくる。ほんの一握りの親しい人に知られるだけで世間からはほとんど見過ごされ、彼らの周囲の人が死んでしまうと、その記憶は何処にも残らない。人間の英雄性を例証するとも言える無私で高貴な努力を証言できる者は誰もいない。このような霊感に満ちた魂は工場労働者や店員や農夫の身体に宿るかもしれないのである。格別目立つこともなかったが――広い意味でだが――立派に生きた生涯は、おそらく、類魂に直接啓発された愛と偉大さを最大限に表わすものである。そこで、目に見えぬ世界では最初のものが後になり、後のものが先になるというわけである。
かくして、地上における最後の旅で人知れずひっそりと通り過ぎてゆくのが、私が「魂的な人」と呼ぶうちのある人たちの運命なのである。無名で控え目で意のままにならない生活をおくりながら、彼らはより大きな個性へと飛躍するときのために準備するのである。》(『人間個性を超えて』第10章)