32-なぜ明確な証拠は得られないのか

一八四八年から第一次世界大戦に到る、スピリチュアリズムの隆盛は、上記の「霊的交渉の難しさ」を踏まえ、かつ人類史的な規模で眺めてみると、やはりきわめて特別なものであったように思える。途方もない物理的心霊現象を起こす霊媒があちこちで現われ、情報的心霊現象としては、きわめて高度な内容のメッセージがいくつももたらされた【32】。
しかし、それにもかかわらず、「霊の実在」は正統な知からは却下された。
「霊の実在、人間個性の死後存続というようなことが真実なら、なぜそれほど重要なことが、誰の目にも明らかな形で示されないのか」――これは否定論者が揶揄するように言うことであると同時に、スピリチュアリストたちが首をひねるところである。
人間の側の「心理的抵抗」「回避圧力」もあるだろう。もっと単純に、「物理的安楽」をもたらしてくれる唯物論に誰もが心を奪われたせいかもしれない。
ただ、「霊」の側も、明らかな「証明」は避けてきたようにも思える。否定論者ばかりが監視する完全密封の実験室の中で、霊が「物質化現象」によって出現し、それが計器に観測されることはなかった。そうした条件で「交差通信」や「飛び入り交信者」が記録されることもなかった。史実と符合する前世記憶を語っても、さらには前世記憶と符合する外国語を話しても、当該の人物の実在証明はなかった。
「霊には『証明』という概念がわからないのではないか」と語ったスピリチュアリズム研究家もいた。しかし、どうもそれよりも、「完璧な証明は、禁止されている」という疑いの方が強いように思われる。
霊からのメッセージがはっきりと述べたわけではないが、「完璧な証明」は回避されているのは、意味がある。それは、「霊の実在」「人間個性の死後存続」という認識は、それぞれの人間の主体的選択に委ねられている、ということである。明確に証明されたのであれば、選択の余地はない。誰もが認めざるを得ず、また誰もがそれを認めるために苦労する必要もない。霊魂の認識は、そういうものであってはならず、選び取るものであり、選ぶことも選ばないことも可能なものであるべきなのではないか――これは逃げの詭弁だろうか。
もう一つ言えば、人類総体の発達段階として、この二千年は「物質的探究」の時期だった、そしてその趨勢はまだしぶとく続いている、ということなのかもしれない。この二千年、世界で隆盛となったキリスト教、イスラーム、仏教は、いずれも「霊界」を否定する(あるいは非常に矮小化させる)宗教だった(開祖がそうだったかどうかは別として)。神や仏については厖大な言説が語られることはあっても、個々の「霊魂」やその行き先については、ほとんど回避・韜晦を続けた。そうした宗教のありようと、人類の「物質的発展」とは、実は密接に関連していたのではないか。
二〇世紀の後半、「ニューエイジ」という運動が現われて、新たな「水瓶座の時代」の始まりを主張した。しかしその一二〇年ほど前に、スピリチュアリズムは、新時代の訪れを宣言していた。「友よ、この真実を世に伝えなさい。これは新しい時代(New Era)の曙である。このことをもう隠そうとしてはならない」と。スピリチュアリズムは、二〇世紀中期以降、メインステージから姿を消した。代わりに登場したニューエイジ運動は、ほとんどスピリチュアリズムを参照していない。しかし、もしこれからの人類史が、物質的発展とは異なる方向に進むのだとしたら、スピリチュアリズムの提起した問題は、再び注目されることになるのではなかろうか。

【32】――なぜこの時期のこの地域だったのかというのも大きな謎であるが、西洋文明はやはり当時の先進文明で、科学的探究心、記録への配慮、伝播の力の高さなどがあったからだろう。時期についてもいろいろな推察が可能だが、不明としておく。