23-生まれ変わり①

生まれ変わり(再生)問題は、難題中の難題である。それは普遍的で人気もある主題だが、その仕組みはきわめて複雑で、「人間の知性では理解することができない」とすら言われるものである。ある程度の説明が示されているが、それをたどっていっても、また難問にぶち当たる。再生問題は霊学の最も深遠な部分への入り口である。少し長くなるが、その迷路に歩み入ってみることにする。ただし以下は暫定的な整理であって結論が明確になっているものではない。
初期のスピリチュアリズムは再生問題に関して沈黙していた。むしろスピリチュアリストの多くはそれに反対していた(D・D・ヒュームなどもそうであった)。キリスト教の教義に真っ向から反対するものであったということもあるだろうし、インド宗教がこれを前面に押し立てていたので西洋人には「東洋に呑み込まれる」といった危機意識もあったのだろう。いち早くこれを明らかにしたカルデックの書物(スピリティスム)に対しては、フランス内外でかなりの批判があったようである。また、その後ブラヴァツキーが神智学を展開した際には、その仏教的色彩に魅惑される人と反撥する人とが激しくぶつかった。スピリチュアリズム運動で活躍した霊たちは、こうした情勢を考慮し、また再生問題が難解だということもあって、沈黙を守っていたのかもしれない(インペレーターのメッセージには再生を否定する見解も肯定する見解もない)。
再生という主題は、仏教を含むインド思想の特色でもある。日本仏教からすると再生は仏教の中心的主題ではないように思えるかもしれないが、それは東アジア仏教の特殊性であって、原始仏教やその正統な末裔である上座部仏教では輪廻は大前提である。「苦からの解脱」というブッダの主題は、ウパニシャッド哲学以来の輪廻思想がなければ成立しない。死滅パラダイム、つまり死ねばおしまいならば、苦を逃れるためには早く死ねばよいだけの話である。仏陀の苦悩はこの輪廻の重圧への苦悩であった。仏教がこの中心主題を後景に退かせたのは、大乗仏教における「無我」論や「空」の思想以降のことである。
しかし、仏教の、というよりウパニシャッドの再生思想は、突拍子もない。人間がゾウリムシや蚊に生まれ変わるというのは、およそ利口な神の考え方とは言えない。そういった再生思想に忌避感を表明する人々がいるのは当然であろう。

スピリチュアリズム霊学では、一応生まれ変わりはある、とする。しかし人間が下等な生物に生まれ変わるようなことはない、とも言う。霊的成長に「退歩」はないからである。人間としていかに愚かなことをなそうが、それを反省して成長していくのには、やはり人間として生まれるのが理にかなっているだろう。極悪人が蛇に生まれ変わったとしても、それが悪を改悛する契機になろうはずがない。
生まれ変わりがあるというのは、ある面で救いであろう。大多数の人は、いろいろ含むところはあっても、基本的に現世が好きなようである。ある所で行なったアンケートで「死後のあり方を好きなように選べるとしたら何がよいか」という問いに、多数を占めたのは「生まれ変わってくる」であった(ただし「消滅する」を選ぶ人もごく少数であるがいる)。もっともこれは、もう一つのオプション、つまり「より高次の世界へ行く」という可能性を多くの人は知らないし考えてもみないからかもしれない。ともあれ、生まれ変わることができる(しかも下等なものにはならない)というのは、やはり救いの一つと言えるだろう。
もう一つ付言しておけば、「魂は進歩することができるが、退歩はない」ということも、救いと言えるものではなかろうか。たとえ人生の中で、老衰して知性や自己統御力が衰えても、それは退歩ではない【21】。魂はこの世の生でもあの世でも、さらに生まれ変わっても、自らが成し遂げた成長度は失うことがない。知者が愚者に生まれ変わることはなく、有徳者が卑劣漢に生まれ変わることもない。身に付けた知性・道徳性・創造性は、生まれ変わったとしても保たれる(それが現世の成功や栄誉と結びつくかどうかは別問題であり、しばしば潜在してしまうこともあるだろうが)。この「自らの魂が獲得したものは失われることがない」という主題は、「成長」の意義を理解できる人にとっては、大いなる救いであろう。

しかし、確かに生まれ変わりがあるということはあるレベルでは救いではあるが、もう一つ上のレベルで見れば、まったく救いではない。この世の生のすべてを「苦」と捉えたブッダの意見が正当だったか否かはここでは置くとして、スピリチュアリズム霊学でも、生まれ変わりは必ずしもよいことではない。それは「やむを得ざる」プロセスであって、その輪から脱することが望ましいとされるのである(その方法は仏教の説くような「さとり」体験ではない)。
「やむを得ざる」プロセスというのは、単純に言えば、魂は、未熟な部分、未完成な部分を陶冶するために生まれ変わる、ということである。多くの魂は、さらに高次な世界へ行って活動するには未熟すぎる。何か優れた業績をした魂でも、その人格性(霊格)においては様々な欠点、いまだ学び得ていないものを持っているかもしれない。想念の力もまだ脆弱かもしれない。それを再び現世に戻って学ぶことが魂の成長には望ましい、というのである。たとえば科学や芸術できわめて創造的な働きをなした魂が、愛を学ばなかったために、今度は凡庸な市井人に生まれ変わるということもある。ただし、こうしたプロセスに一般的法則を見いだすことはできない【22】。マイヤーズ通信は言う。「各魂には互いに差異があり、同じ本性、性格のものは二つとない。……そういう訳で、再生理論に関しては意識生活の全領域に共通する法則というものはあり得ないのである」[人間個性を超えて、九八頁]。

さらにこの再生プロセスに関しては、一層込み入った主題が出てくる。それは、再生の決断、そしてどのような次生を選ぶかというのは、魂の自主性に委ねられるというのである。
このあたりはかなり受け入れにくい話になってしまうが、魂は、自らが何を学んできたか、何に失敗してきたかを省察し、指導霊との相談によって、次生を選択する。その際、次生のおおまかなアウトラインは見せられる。マイケル・ニュートンなどの説(クライエントの報告)ではいくつもの人生を見せられ、その中から最も学びに効果があるものを選ぶという[ニュートン、二〇〇一年]。再生を拒否する権利はないわけではないが、成長ということを深く理解すれば、いまだ再生が必要な魂は納得して自らその道を選ぶ。
このように言うと、さらに様々な疑問が生じてくる。人生のアウトラインというのは決まっているのか、すべての魂が納得ずくでそれを選んできているのか、といった疑問である。これに対する答えは、さらに受け入れにくいものである。つまり、おおむねその通りである、というものである。
この回答に対しては、猛反発が出るであろう。幼くして死ぬ子供、先天性の難病を背負ってきた人、事故や病気で人生半ばで死ぬ人、恐ろしく不遇な境遇に生まれ育つ人、そういったすべての不幸は決まっており、しかもそれを選んで生まれてくるというのか。それはいかにも不条理ではないか、と。
スピリチュアリストといえど、こういった問いを黙殺してきたわけではない。むしろスピリチュアリズムを知っていく際、このような疑問は誰でもまず抱くものである。
しかし、じっくり考えてみれば、この見解に不条理なところはない。不可避な不幸(「先天性の病気」や「天災」などのあくまで不可避な不幸)は、非情な偶然のせいであって、それに出会ってしまった魂はあきらめるしかないのか、それとも、不可避な不幸はある種の経験を学ぶためのものであって、長く続く魂の旅の一場面に過ぎないのか。「神の法は公正」であるのなら、答えは明白ではないだろうか。
人間の思考は踏み間違えをするのが常のようである。魂が成長のためにある種の不幸な宿命を選んでくるとするなら、それは「因果応報」「自業自得」であって、ことさらに同情することはない、という考え方がある。かつて日本仏教で「業(カルマ)」という言葉でこの種の考え方と、それに基づく差別行為が広まったことがあった。不幸な被差別的境遇に生まれたのは前世の過ちの償いであるから、彼らは差別されて当然だという論理である。これは霊的論理の履き違えないしは不徹底ということであり、謬見である。「苦」を味わい続けることが「償い」であるという論理は霊的には存在しない。苦は光への道となるべきものであり、苦しむ他者に光を与えようと努めることは光を知っている者の責務である。また、他者のカルマや宿命を云々する権利は人間にはない。人間がなすべきことは手を差し伸べることができるのならそうすべきだということである。
人生のアウトラインが決まっているということも、物議を醸す主題である。これは「決定論」と「自由意志」の問題として、スピリチュアリズムの霊信でもたびたび論及されるものである。この問題は人間の知性ではなかなか理解しにくいものであるが、大まかに言えば、寿命、愛情など精神生活の内容、現世的成功の度合いといったことは、ある程度決まっているようである。何がその人生の中心的主題となるかも、そうであるらしい。しかし人生の出来事は魂の自由意志によって様々に変わる。たとえば、ある魂(たとえば自分の子供)を援助するという主題は決まっているにしても、そのやり方は様々だろうし、そのどれを選ぶかはある程度は選択の余地があるということである。あるいは人生の長さやそこでの大体の境遇は決まっていても、そこに盛り込める内容は、魂の主体的選択によって様々に異なるだろう。そして主体的選択によって、魂はその課題をうまく学べることもあるし、失敗することもある。すべてが決まっているのであったら、学びも失敗もないだろう。

【21】――痴呆症、全身不随、植物状態といった場合でも、魂自体がだめになっているわけではない。身体や脳との連絡が不全となっているだけで、霊魂はもとの人格を保っているとされる。
【22】――生まれ変わりの回数というものも、はっきりとした言及はない。数回という説や十数回、さらには三桁という説もある。三桁というのは信じがたいが、グループのレベルを上げれば(中位集団)そうなるのかもしれない。また後に述べるように、類魂全体の「現世経験回数」と捉えればありそうでもある。